Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

【対談】F/T13公募プログラム全演目&F/Tアワードを語る[part3]

★[part1 公募プログラム国内演目編]はこちら

★[part2 公募プログラム海外演目編]はこちら


■薪伝実験劇団『地雷戦2.0』[作・演出 ワン・チョン]
2013.12.05〜12.07@シアターグリーン
[落○ 山崎○]

落:私、これ初日に観たあとに山崎君にメールしたよね。「全然面白くないからぜひ観て考えを教えてほしい」って。

山崎:「面白くないからぜひ観て」ってどういうことかと思ったけど(笑)。ゲーム的な形式での生死の反転と、吹き込んだ音声の時間差での回帰が地雷の爆発を表す手法は地雷(戦争)の無差別性、一度仕掛けたら自分にも牙を向くかもしれない地雷(戦争)の本質をある面から鋭く捉えていたと思う。つまり、地雷(戦争)は本質的に馬鹿馬鹿しい非人称のゲームでしかない。タイルを剥がして作り出された十字架を挟んで戦う場面もその馬鹿馬鹿しさに通じてるんだと思うけど、その辺のモチーフの取り入れ方が中途半端な印象。十字架とか原爆のモチーフは普遍への志向だと思うんだけど、「地雷」がかなり強力にパロディ化されているのと比べると他のモチーフの扱いはいかにも手緩い。

落:手緩いし、浅い。並べただけと言っていいと私は思う。声を拡声器に録音して仕掛けて、それに振り回されるという構造には、地雷の本末転倒さがよく表れているけれど。演出におけるテクストのコラージュの手法についてはF/Tアワード講評会で言及されていて、好評価の理由ですらあったけど、たとえば女優が独りで朗読していた謎の性描写部分は全体の中で超浮いてた。コラージュによって浮かび上がるはずの像のフォーカス精度が最後まで低かったので、テクストが評価される理由になったのはよく分からない。玉音放送の高速引用なども、あそこから2013年の日中の緊張関係を読み解くのは難しくない?山崎君、できた…?

山崎:Qのときにもチラッと言ったけど、俺は必ずしもコラージュの結果、一つの像を結ぶ必要があるとは思ってないんだけど、それにしても今回の地雷戦2.0では地雷以外のモチーフの導入は雑で、あまり効果を挙げていないと思う。作品が2013年の日中の緊張関係に関連しているって指摘は、講評かなんかにあったんだっけ?玉音放送も「戦争一般」の表象の一つのなのかなと思ったんだけど。

落:相馬さんが講評映像の最後に言ってた。

山崎:いずれにせよ、原爆はともかく玉音放送がたとえば中国でどの程度認識されているのか=中国ローカルの文脈でどの程度理解されうるのかって考えると、それはあまり知られてないんじゃないの?って気がする…。だとすると玉音放送は日本の観客に対する目配せでしかなくなるよね。現代の日中の関係については日中戦争のプロパガンダ映画を題材にしてる時点で作品の射程に含まれてると思うし、地雷(戦争)のモチーフだけでも十分に普遍たり得ると思うので玉音放送とか原爆とか取り入れるならそれなりのエクスキューズというか構造が必要だと思う。あるいはもっと過剰になんでもかんでも取り入れて並置するか。

落:原爆って、あの上から黒い拡声器が降りてくるシーンのことよね。日本で原爆モチーフを扱うのって結構センシティヴな問題だけど、そういう危うさも戯画化で茶化されてしまうとやはり感受しにくい。

山崎:原爆ですらゲームの一部として提示してしまうというのは表現としてありだとは思うんだよね。現代においては原爆も戦争も非人間であるという点では変わりはない。もう一つ思うのは、中国では検閲の問題とかあるからプロパガンダ映画のパロディをやるっていうことそれ自体にかなり大きな意味を見出せるし、それが作品の存在意義になるんだろうけど、その文脈から外れたとき、戦争のゲーム性というモチーフとワンアイディアの手法だけでは作品を成立させるには不十分なのではないかということ。

落:中国の検閲というのは、問題となる事項が含まれているというだけで反射的にアウトなのだろうね。去年、北京に一か月出張したことがあって、ちょうど天安門事件の日にちとかぶってたから、NHK(ホテルで見られる)がしょっちゅう1989年当時の映像を流していたの。そのたびに画面が真っ暗になって、ニュースが終わったころ何事も無かったかのように朝ドラが始まる。とにかく「含まれている」だけでアウトになるので、含まれているモチーフの「効果」を勘案しているわけではない。だから、そういう中国で上演差止めになった作品だからといって、日本で上演された場合のクオリティが保証されるわけではない、というのはもちろん前提。

山崎:作品自体には普遍を志向している痕跡が見えるけれども、それが上演される意義の多くは中国というローカルな文脈に拠っているというところに齟齬があるように俺には感じられる。

落:戦争についての普遍を志向するということは、つまり「これが"戦争"の本質です。」と言うことに等しいはずだけど、とてもその主張には頷けません、というのが私たちの違和感の正体かな?

山崎:そこはちょっと違うかな。俺はこの『地雷戦2.0』も十分に戦争のある一面における本質は捉えてると思う。でも一方でそれが単に「戦争反対」って叫ぶことからそれほど離れていないようにも感じられる。ブラックジョークとしての切れ味も感じられなかったし。だから、これを表現すること自体に意義を見出せる中国の文脈から離れたとき、この作品が舞台芸術として自立するに足るポテンシャルを孕んでいるかが疑問。だからローカルな文脈を考慮に入れて評価するならわからなくはないけど、そうじゃないならあまりいいとは思えない。審査のことを考えるなら中国の文脈は審査員に了解されている可能性はまだ高いわけで、それが台湾やシンガポールの文脈となるとどうかって問題が出てくるよね。

落:赤ちゃんとか老人の、デフォルメされた演技もすごく茶番っぽくて鼻白んでしまったし、コンセプチュアルな主題を志向しているわりに俳優の演技・演出のレベルがお粗末。仕草の内容は確かに伝わりやすかったけど、それは「グローバル」とか「インターナショナル」な表現だからではなくて、ただのごっこ遊びレベルの身振りだからでしょ。

山崎:それは表現としては「ゲームの一環」だからでは?あれは全てを馬鹿馬鹿しくやることこそが目的でしょう。戯画化をどの程度許容するかは文化的背景によってだいぶ違いそうだし。訓練という意味ではもっとちゃんとやれよと思うところもなくはなかったけど。個人的にはもちろんやり過ぎだと感じたけどね。

落:そうなると「中国の文脈から離れたとき」という山崎君の言葉をやはり考えざるを得ない。アジア諸国が、あまり文化的背景を共有していないということは、簡単に「驚いて」「感動」できてしまう可能性があるということで、去年のF/Tアワード受賞作のシアタースタジオ・インドネシアの、プリミティブかつダイナミック、呪文のような台詞のパワーだって日本の観客には強烈な体験だったように思う。それに飲まれないためにも、国ごとの文脈を知って汲んでいくことは、予想外のものに出会って無条件に感動してしまうことへの予防策になるかも、と今思った。


■F/Tアワードと演劇批評


落:2012年のF/Tのテーマは「ことばの彼方へ」で、東日本大震災以降、日本人アーティストたちが考え続けてきたことがある程度作品に結実していった時期だったけど、結局アワードはインドネシアの団体だった。そして今年も受賞は中国のカンパニーだった。作品のレベルがアワード受賞に達していなかったと判断されたのだから仕方ないし、アワードが射程にしているアジア全体の中にもちろん日本は入っていると思うけど、日本人作家の衝動たる問題意識は今、公募プログラムにおいて評価の場を失ってさまよっているように私には思える。戦争や紛争を扱ったらそれが普遍か、ということには、今、薪伝実験劇団について振り返ったところで「否」という結論になったわけですし。戦争や紛争や、検閲のない国にも、切実なテーマはあるはず。まあ日本だっていつまでも安穏とはしてられなさそうだけどさ。もちろん、この話は闇雲に「日本の文脈を尊重してほしい」と言っているわけではないことは分かってね。

山崎:最初の方にも言ったけど、「個別の問題意識」を「評価」するということそれ自体が難題というか問題含みなわけで。

落:その国の事情や文脈、作品が生まれた背景を知ったうえでの評価は問題も多いし難しいだろうけど、他の文学や戯曲のあらゆる賞がそうであるように、選考において審査員の「美学」が押し出されることは往々にしてある。sons wo:を推したけれども、受賞はさせられなかった飴屋さんが「もう審査員はやらない」と言ったあの場面は、古今東西の伝統的な(?)抗議辞任としての振舞いだと受け止められるよね。

山崎:大切なのは、これはアワードのまた別の存在意義として掲げられていることだけど、「言葉を与えること」だと思うんだよね。それを考えると落さんの提議した問題についてはアワードというよりはむしろ批評の不毛こそが糾弾されるべき。

落:批評の言葉が育っていないという指摘はその通りで、アワードを受賞した理由も大切だけど、公募プログラムに集まって来るアジアの若手演出家たちの仕事を丁寧に言葉にした結果、同時代の共時性が見えてきたり、それゆえに異なっているものが分かるほうが重要。

山崎:もちろんアワードでは作品に評価を下さざるを得ないわけだけど、個々の作品でどのような試みが行なわれていたのかを具体的に指摘していく作業がもっと行なわれてもいい。これはF/Tというよりはもっと演劇全体の話としてね。むしろF/Tは作品関連イベント、トーク、ドキュメントと用意されていて作品を取り巻く言語環境はすごく充実してる。だから問題は用意された場以外では作品に言葉を与える試みが極めて少ないってこと。今回この対談では、それぞれの作品を落さんと俺がどう評価したのかという話ももちろん入ってきてるけど、個々の作品でどういうことが行なわれていたのかに対する指摘の方が重要だと俺は思ってる。「いい/悪い」「好き/嫌い」の言説だけでは対話の余地も積み重なるものもないから。



落:森山直人さんが、今年の講評の映像で「公募プログラムによって、東京が演劇づくりのアジアのネットワークの拠点になってきた」と発言していたけれど、確かにそれに対する言葉を与えたいと考える人が少ない。公募プログラム全体の集客がそもそも低い印象がある。けれど、アジアの作り手が東京を目指したいと思うようなネットワークがもしできるなら、批評だってそこに追いついていかなければいけないですね。


 「積み重なるもの」という言葉が山崎君から出たけど、やはりそれを大切にしていきたい。そこで最後にもう一つ話題に挙げたいのが、2013年12月30日に、東京デスロックの多田淳之介が韓国の第50回東亜演劇賞(作品賞、演出賞、舞台美術賞)を受賞したというニュース。東亜日報の彼のインタビューを読んだのだけど、これまでの彼が時間をかけて韓国演劇界と創作を続けてきたことが分かるものだったし、Twitterでは平田オリザの長年の活動についても言及していた。国を越えて「分かり合えないことを分かり合う」スタート地点に立つためには、とても時間がかかるんだと改めて思った。F/Tアワードは、始まってまだ四回しか行われていないし、「アジアの文脈」などについて、私たちもすぐには語る言葉を見つけられない部分はもちろんある。だけど演劇作品について、あるいはそれについて書かれた何かを読んで「好き/嫌い」を言うだけでは、作家の仕事をちゃんと見たことにならないし、作家ががんばってるだけで批評家ががんばってないことになるもんね。誰かが言葉を尽くすということは、一見議論の余地を剥奪していくことのように見えるけど、反論や疑問が生まれることによって、むしろ余地を広げていくのだと思う。それが作家と観客(という言い方が広すぎるなら、少なくとも批評を試みようと思っている人)にとって、お互いに誠実な態度なんじゃないかという希望を、今は持っているのです。 [了]

 

 

山崎 健太(やまざき けんた)

1983年生まれ。演劇研究・批評。本企画を主催。早稲田大学大学院文学研究科表象・メディア論コース博士課程。映画美学校批評家養成ギブス1期修 了生。批評同人誌ペネトラ同人。劇評サイト・ワンダーランド、BlogCamp in F/T 2012、KYOTO EXPERIMENT 2013 フリンジ企画使えるプログラム支援系Aなどに参加し劇評を執筆。劇団サンプルの発行する雑誌サンプルvol.1に「変態する演劇 −サンプル論−」を寄 稿。@

■ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yamazaki-kenta/

■ブログ pop_life http://yamakenta.hatenablog.com

 

 

落 雅季子(おち まきこ)

1983年生まれ、東京育ち。会社員。主な活動にワークショップ有志のレビュー雑誌”SHINPEN”発行、Blog Camp in F/T 2012参加など。藤原ちから氏のパーソナルメディアBricolaQスタッフ。@ 

■BricolaQ http://bricolaq.com

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■観劇ブログ「机上の劇場」 http://an-armchair.jugem.jp