Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

【対談】F/T13公募プログラム全演目&F/Tアワードを語る[part2]

★[part1  公募プログラム国内演目編]はこちら

★[part3  F/Tアワードと演劇批評の未来編]はこちら

 

※各自、観劇したものは各演目名称の直後に○、未見の場合×を記した。

■ゴーヤル・スジャータ『ダンシング・ガール』[振付 ゴーヤル・スジャータ]
2013.11.26〜11.27@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:ダンスだから言葉で説明するのは極めて難しいんだけど、F/Tのサイトに「データ化、再編集」ってあるように、ざっくり言うとインドの古典舞踊を解体再構築した作品。おそらくはインド古典舞踊の動きやポーズを切り刻んで「静止画」のように取り出したものを並べて順に提示していく。基本的に「静止画」なのでポーズA→しばし停止→ポーズB→しばし停止→ポーズCって感じで続いてく。あとは照明の変化。全体としては徐々に明るくなっていきつつ、部分だけを照らしたり360度ゆっくり回転しながら周囲から照らしたりする。最後に客席をじっと見つめて終了、だったはず。
 ムーブメントの再構成は手法としては有名どころではウィリアム・フォーサイスとかがやってるしコンテンポラリーダンスでは目新しいものではないんだけど、はじまってすぐのほぼ闇の状態で身体の一部にのみうっすらと光が当てられるシークエンスはとてもよかった。ムーブメント自体がダンサーから幽霊的に乖離して浮かび上がるような感覚。わずかな時間で闇に消えて、また次の幽霊が立ち現れる、その間の闇にも観客はそこにない動きとしての幽霊を見ることができたと思うし。ただ、明るくなってくにつれてそういう効果は薄れていくわけで…。それが解体→再構築の流れだったのかもしれないけど、最初がとにかくインパクトあったのでそれを越えられなかった印象。

落:なるほど、想像するに、古典舞踊の「分解」で終わってしまったということかな。分解したものを「分類」する過程が作品に反映されるかはともかく、「再構築」は言葉で言うほど簡単ではないね。「分解」がある程度鮮やかであれば、観客側が見て補えることもあるけれど。

山崎:冒頭部はそれがうまくいってたのだと思うんだけどね。

落:これは、台詞がなかったの?

山崎:うん、台詞はないダンス。「暗→明」ではなくて「明→暗」だったらだいぶ評価が違ったかも。暗がりに浮遊する振付の断片を観客が脳内でダンスへと再構築するということは十分あるわけで。あとはダンサーのアイデンティティの問題にもフォーカスをあててたらしいんだけどそのあたりはよくわからず…。F/Tのサイトに掲載されてるインタビューで本人が作品についてかなり詳細に語っているんだけど、観客がそれを読み取れるかというと結構難しいんじゃないかなーと思う。必ずしも読み取れなくてもいいのかもしれないけど。

落:ここまで話してみると、山崎くんが何を認めるか認めないか、いろいろ評価軸が分かって面白い。

山崎:マジか!(笑)むしろその話詳しく聞きたいわ(笑)。というのは冗談として。次、台湾。

 



■シャインハウス・シアター『真夏の奇譚集』[作・演出 ジョン・ボーユエン]
2013.11.29〜12.01@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:ホラー短編演劇の四本立て。黒髪ストレート長め、白のストンとした装飾なしのワンピース、目には隈の「貞子スタイル」の女性4名とハンディカムによる撮影役男性の計5名で上演。シアターグリーンベースシアターの壁際が全部客席で、階段状の部分も含めて演技スペースは観客に囲まれた状態。演技スペースに三方を紗幕で囲まれた「部屋」があって、それ以外にも何箇所か垂れ下がってる紗幕に上演中はハンディカムの映像をリアルタイムで映し出す。紗幕と映像で去年のF/Tでのヒッピー部を思い出したけど、映像の使い方としては今回のシャインハウス・シアターの方がこなれてはいたかな。ただ、見た目の面白さ以上の効果を挙げていたとは思えない。その「面白さ」も「それなり」レベルで決して新しくもなく。芸能人がお化け屋敷で驚かされるテレビの映像(なんか緑色の映像になるやつ)を思い出してもらえれば映像の質感的にはほぼそういう感じ。紗幕使ってるから裏表逆の映像が見えたりするのはまあそれなりに面白いけど…、といった感じ。ホラーの出来の基準を「恐怖」に求めるのであれば物語も表現も全く怖くなかったので失敗だと思う。


落:私はホラーがとにかくだめなので、F/T用のYouTube宣伝動画ですら全部観られなかった…でも映像ではお化け屋敷みたいな原初的な怖さしか感じなかった。原初的っていうのは「びっくりして怖い」みたいな、あんまり頭を使わない怖さのこと。

 

山崎:実際劇場で見るとそれすらないというか、やっぱり生身の人間がやってるもので恐怖を演出するには物語か演出で相当の工夫がないと厳しい。怪談が「語り」の形式をとることが多いのはその方が想像の余地がある分、怖いからなんだと実感。シャインハウス・シアターのは物語的には説明過多だし演出的にも余白がなかった印象。たしかどれも女性が主人公になってて、F/T公式の説明を見ると現代社会に警鐘を云々って書いてあるけど、それぞれの話に社会的な問題提起があったかは激しく疑問だな。

 

落:「霊より生きてる人間のほうが怖い」という、人間くささに寄った作りであれば、社会への警鐘云々というのも、もしかしたら出来たかもしれないね…。ここの演出家のジョン・ボーユエン氏は、1985年生まれで若いのね。俳優として広告やテレビや映画で活躍、というプロフィールを見ると、社会問題を深くえぐる作品というよりは、エンターテイメントも好きなのかな…?

 

山崎:ちなみに覚えてる範囲だと男に捨てられその男のマンションから飛び降りた女の霊の話、一緒に暮らしてたおばあちゃんが亡くなったので父母と暮らすことになったけどうまくいかず、霊界のおばあちゃんと電話で会話するも実はそれがニセモノで霊に食われそうになる話、山で仲間とはぐれて不思議体験(あんま覚えてない…)、被災地で女の子に両親を探してあげる約束をするも実は死んでいたのは女の子の方で、埋まっていた彼女を発見、霊能力で彼女の魂を呼び戻し蘇生!?というラインナップ。生きてる人間も霊も貞子スタイルの女性が演じてたので、最後に撮影者の男を主人公にしたドンデン返し的なものがあるのかと思いきやそれもなく。芸術表現として攻めてるところはほぼ見当たらず、かと言って純粋なエンタテインメントとしては出来が悪く、といった印象。




■ソ・ヨンラン『地の神は不完全に現わる』[構成・振付 ソ・ヨンラン]
2013.11.30〜12.01@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:韓国の伝統的な舞踊と音楽の起源を探った成果をレクチャー&プレゼン形式で。インタビューの音声とかパワポとか組み合わせつつ、間に実演を挟む。伝統の要素を現代の中に見出したり。日本の石焼き芋の呼び込みとかせんだみつおゲーム的なものとか、いわゆるアートとは見なされないものの中に芸能の断片を見出していくのはちょっと面白いところもあった。変にアカデミックにもアートにも寄らず、自然体なプレゼンにはまあ好感は持てたんだけど、それはつまり、例えば大学生の発表とかとスレスレなところがあるってことで。パフォーマンス自体にはあまり魅力を感じなかったです。というかそもそもそういう強度はおそらく求めてないんだけど。劇場のフォーマットでやるより伝統芸能に関する展示の関連企画とかでやった方が面白く見られたかも。

落:なるほどねえ。「パフォーマンス自体にはあまり魅力を感じなかった」というのは「物足りなさ」という言葉に言い換えられる?だとすると、やはり、作家自身のひらめきの羅列に終わってしまったように思えるということかな。それはさっきの『ダンシング・ガール』での、分解と分類の話でいくと「分類」に終始してしまったということで、それゆえに、学生の研究発表プレゼンとすれすれ、みたいに見えてしまったのかしら。

山崎:物足りないと言えば物足りないんだけど、作品のテーマを考えるとそれは意図的なものなんだよね…。だから今の落さんの言葉だとちょっと評価が厳しすぎるかなあ。や、俺の説明が言葉足らずだったんだけど。つまり、伝統的な芸能のエッセンスを現代に見出す/その起源を辿るって試み自体が既存の「アート」に回収されないものの提示を目指しているのであって、それを作品として「再構成」して「完成された」ものにしちゃうとそれこそ「アート」の文脈に再回収されることになっちゃうから、そこは回避せざるを得ない。でも一方でそれを劇場で上演してる時点で舞台芸術の枠組みには組み込まれざるを得ないわけで、その矛盾を乗り越えるとか無効化するような構造が仕組まれていたかと言うとそんなこともなく、そうすると結果として生ぬるい舞台作品と見るしかない…。ものすごく練られた構成の知的なパフォーマンスなのはたしかなんだけど。

落:何かの「再構築」「再編」あるいは「破壊」とか、作品が向かう先は様々だけど、私は「分解」と「分類」のどちらかではだめ、と思っている。絶対だめではないけど、そのどちらかに偏ってしまっている場合「それなら口で喋れば分かる」とか「Excelで図示すれば分かる」というふうに演劇作品としての面白みや、必然性が落ちることが起きうるからですね。

 


■タン・タラ『クラウド』[構成・演出 タン・タラ]
2013.12.05〜12.07@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:『クラウド』ってタイトルの通り、情報量が多過ぎて十全に説明できる気がしないんだけど、パフォーマンスとしては日本人俳優による語り、横並びの2スクリーンによる映像、ラストに登場する歌手の歌の3つで構成された作品。俳優による語りと映像は何回か入れ替わりながら提示される。俳優の語りのときは映像で海とか風景を映し出していたような…。いずれにせよ俳優の語りと映像で提示される物語との間に明確な意味上のつながりはなかったと思う。俳優はクラウド化する現代社会の状況みたいな内容を相当な早口の日本語で語ってたように思う。

 一方、映像で展開されるのは男女の痴話喧嘩。男が浮気をしていると責め立てる女。ショッピングセンターで見知らぬ男から復縁を迫られる女。そして事故などで記憶を保持することができなくなった人の代わりに思い出を作り、それを移植手術で提供する仕事につく女。明確なつながりは示されないものの、断片的な情報から推測するに、女が男の浮気相手だと思っているのはおそらく「記憶提供者」で、復縁を迫ってきた男も女が「記憶提供者」として記憶を作るために接触した人間だったと思われる。記憶の外部化が可能になった社会のスケッチ、といったところかな…。で、合間合間に日本地図とその左上にTwitterのつぶやきの断片が映し出される。内容にはあまり意味がなかったと思うし、けっこうなスピードでつぶやきが切り替わるから全部読むのはかなり難しかったと思われる。

落:映されてるTwitterのつぶやきは誰のものなの?

山崎:アカウント名が付されていたように思うけど、たしかバラバラだったはず。不特定多数のつぶやきを思わせるランダムさ。で、ラストシーンは歌。普通のポップスでラブソング。舞台中央あたりの台に腰掛けて熱唱…。好意的に解釈するなら俳優/映像/歌手っていうメディアの並置も日本語で英語中国語(シンガポールだから。インドネシア語もあったかも)の言語の並置も「クラウド化」し、あらゆるものがフラットになる現代を反映している、と見られなくもないけど、実際のところ全然フラットになってなくて、何でわざわざ日本語?/俳優?/歌手?という疑問だけが残った。

 記憶のテーマについてはSFとしては全然新しくないし、それが舞台作品で扱われているのは珍しいかもだけど、舞台作品なりの手法に昇華されているかというとそれも疑問。『クラウド』の世界では記憶が移植可能であるがために、ある主観視点からの映像が特定の一人に属するものではなく、原理的には誰の視点(=記憶)でもあり得る、というのは面白かったけど、それは映像表現の話だからね…。

 

落:なるほど……ではいよいよアワード受賞作の中国、薪伝実験劇団に行ってみましょう。



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