Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

目を合わせないこと

 本来ならば客席であるところに観客は座り、少し見上げる形で客席側に立つ俳優たちを観る。物語は、とある町にいる、とある女の登場から始まる。俳優たちは皆、何か制限が加えられているようにぎこちなく震えながら演技し、発せられる言葉も感情を抑えられたような様子で、抑揚が無い。昔住んでいた場所の記憶が定かでない女は、いつのまにか繰り返す日常を抜け出し、地球外の星へと歩きだしていく。帰りたいと願いつつも、旅はどんどんと続いていく……。


 この『野良猫の首輪』では、一般的に想像されるような演技とはかなり様相の違ったことが行われている。小刻みに震える身体だけでも特徴的ではあるが、さらにその身体は垂れ流すように言葉を発する。そして極め付けには、視線がおかしい。誰もが目を合わせない。俳優たちは、まるで座禅を組む時のように、半分(もしくはそれ以上)目を閉じながら斜め下のほうに視線を落としていた。それは、目で受け止める情報を拒否するかのようにも見える。sons wo:のHPに掲載されている演出ノートには、「野良猫的なもの」に関して、「見下ろす」という行為を挙げている。その「見下ろす」という視線がここで表されているのだろうか。なんにせよ、以下では、その「目を合わせないこと」によって生まれるいくつかの特徴的なことについて挙げていきたいと思う。


 まず、交差しない視線は、会話の交差しなさにまで影響を与える。会話の相手に目を向けないことにより、相手に言葉を届けると言うよりかは、中空に言葉をぼとぼとと落としていくような印象を受ける。主人公である女のモノローグとダイアローグにおける抑揚の変化のなさも相まって、言葉は相互で交わされるとしても、コミュニケーションはとれていないのではないかという気になってくる。まるで、相手が何を言おうと、機械的に言葉をかえす人形のようだ。


 そして、相手に視線をやる、といった方法のコミュニケーションがとれない状況に陥っている登場人物たちの共有できるものといったら、爆音で流れる音楽なのである。本作での場面場面の切り替わり、というより場所を移動する際にキーとして使われるのがSimon & Garfunkelの曲である”Bridge Over Troubled Water”だ。それがコミュニケーションの代わりになっているとまでは言えずとも、出口のないだらだらとした会話の突破口となるのは事実であり、この音楽と、スライドに映される観客に向けた場面転換の明示により、物語は進むことができる。登場人物たちの何も見てはいない状態――盲目であると言っていい状態――において、力を持つのが聴覚情報であることはそこまで不自然なことではない。


 もちろんその盲目性は、主人公が「自分が昔いた場所」さらには「自分が今いる場所」を分かっていないという態度にも見受けられる。目をほとんどつぶっているのだからそりゃあ場所を認識することは難しいだろう。加えて、作中登場する宇宙人たちは、衣装に少し工夫がある程度で、見た目的には地球人と差はない。そんなところにも、視覚情報の必要性が薄れていることがうかがえる。


 「目を合わせないこと」、それだけで外界との触れあい方はこんなにも変容してしまう。コミュニケーションとしての言葉は半ば殺され、聴覚情報の重要性が増し、自分の現在地さえわからない。視覚が支配的な状況に慣れている者からすれば、この変化は外界からの孤立を感じさせるものではないだろうか。もしかすると、この状況を受け入れることは、盲人の世界観の一部を感じ取ることにさえなるのかもしれない。


 舞台と客席の反転により与えられた視点や現代美術作品の展示は、以上のような捉え方に沿わせると効果をあげているとは言い難い。ただし、この盲目的世界に野良猫の「見下ろす」という行為を組み込む――高低差から考えて、客席(本作での舞台)から舞台(本作での客席)をみると、見下ろす形となる――ということは、構造的に、新たに俳優側から観客への視点を生み出しているとも言える。視点を没することに対し、もっと強烈にこの視点の誕生が現れてくれば、もっと複雑な世界観が展開していくのかもしれない。少なくとも、その可能性を感じ取ることはできた。



徳永綸(とくながりん)

1992年生まれ。町田在住。横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程3年。

昨年度のブログキャンプに参加。2013年前期KAATインターン生。