Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

空気を読む―小沢剛『光のない。(プロローグ?)』

小沢剛の演出・美術による『光のない。(プロローグ?)』。本公演は、開幕してからの評判が客を呼び、連日当日券が売り切れ追加公演まで行う事態となった。私自身、「ネタばれになるから詳しくは言えないけど、とにかくこれは行くべき」という声を四方から聞き、“行こうかな”という気持ちが“絶対行く!”に変わったのだった。

劇全体の概要は以下のようなものだ。観客は開演時間までロビーで待機しており、時間になると劇場内へ入る扉が開かれる。場内には天井から垂れ下がる黒布で通路が作られており、美術展のように小沢による作品が展示されている。私は、入ってすぐのところにある大きな絵をしばし眺めた後、通路を歩きながら作品を観てまわる列に加わった。絵画、積み重ねられたダンボール箱、並べられた小瓶など、様々な作品があるが、それら全てにイェリネクによる戯曲「光のない。(プロローグ?)」の一部が記されている。通路の一番奥に展示されていた岩まで辿りついてしまい、“これで終わりか…、せっかくだからもう1周しようか”などと思いながら、前の人に続いて逆周りで歩いていると、入口の方でなにやらバタバタという足音がして、え?え?という、客のざわめきが起きた。“終わりじゃなかった、なんか起きてる!”と、そのざわめきの方へと向かおうとすると、走り回るゴリラが姿を現し、岩の上でばったり倒れる。すると、展示作品たちが上へ引き揚げられ、通路を作っていた黒布も姿を消す。ゴリラと、広い空間、新たに降りてきた機械仕掛けで演奏されるリコーダーだけが残る。ゴリラは起き上がり再度動き出すと、穴の中から牛の死体を引きずり出す。それを何度か繰り返したのち、入口側に集まった観客の前に白い幕が現れ、それをスクリーンとして、東日本大震災被災地と思しき海でゆったりと優美にフラダンスを踊る人(顔だけはゴリラの被り物)の映像が流れる。スクリーンが上がると、映像の中と同じようにゴリラの被り物をしてフラダンスを踊る女性がおり、その奥には最初と同じように作品が展示されている。女性に導かれるように以前岩があった奥の方へ行くと、青いビニールシートにくるまれたものがたくさんある。その山の中に身を投げ出し、悔しそうに拳を叩きつけながら沈んでいくゴリラ。背景には「光のない。(プロローグ?)」の文字。拍手もないまま、ひとり、またひとり、と観客は立ち去り、私もその場を後にした。

さて、振り返ってみてなのだが、観客席がなく主体的に動ける空間だったにも関わらず私はあまり自由には行動しなかったように思う。流れに乗って展示作品を見て歩き、小瓶の前では皆が目線を低くしているので同じようにし、岩のところでは裏側に回り込んで顔を近づけているのでそれに倣った。どちらの場合も、そうすると刻まれた文字が読みやすくなるようだった。そして、観客のざわめきが起きるとそちらに向かおうとし、皆がぞろぞろと入口方向へ動き出すと同じように移動し、白い幕が下りてきて前の人がしゃがむと同じようにしゃがんだ。もちろん、観ているときは自分が観たいものが見えるように好き勝手に動いていたつもりだったのだが、実はその「観たいもの」自体が他の観客に左右されていたように思う。私が観たかったのは小瓶に刻まれた文字でも走り回るゴリラでもなく、他の観客が注意を向けた対象だったのだ。つまり、周囲の人たちが観たものを見逃すまいと他の観客の気配を察して観劇をしていたのだと言える。

冒頭、本公演は開幕してからの評判により追加公演を行う事態となった、と紹介した。何が行われているのか分からぬまま、Twitter等での評判により人気が出るというのは、それも来場客が気配を察した結果、と言えるだろう。それは、人垣が出来ているとつい中を覗いてみたくなるのと同じ心理なのかもしれない。だが、現在の日本においては、気配を察する・空気を読むということに関し、それだけではないものを感じる。昨年2013年の「ユーキャン新語・流行語大賞」は史上最多の4つであった。「今でしょ!」「じぇじぇじぇ」「お・も・て・な・し」「倍返し」。これらは、ドラマやCMなどテレビの中で生まれ、バラエティ番組などテレビの中で更に繰り返されることで世間一般に広く知られるようになり、私たちの会話の中でも軽妙なやりとりのひとつとして使われるようになったものだ。日常から自然発生的に発展していった訳ではない、いわば無理やり生み出された流行語である。震災後、「絆」という言葉の下、国民が「復興」というひとつの方向に向かって歩むことが求められてきた。もちろん力を合わせることは大事なのだが、一方で、その方向から外れることへの風当たりが強くなっているように思う。そういった、同じ方向を向かなくてはいけないという気持ちが、流行語という言葉による分かりやすい共通項を数多く流行らせた要因のひとつなのではないだろうか。無理やり生み出された流行語ではあるが、私たち自身が、互いに同じ方向を向くためのよすがとして用いることで広まっていったのだと言える。だが、流行語を口にするときに、私たちはそれが同じ方向を向くことにつながっているとは思っていない。ただ好き勝手に言っているつもりが、実際のところは同じ方向を向くためのツールになっていたのだ。

そう考えると、現代社会とこの『光のない。(プロローグ?)』に同じ構図が見えてくる。どちらも、好き勝手に動いているつもりが、実は周りの空気を読んでいた=同じ方向を向いていた、のだ。本公演は、被災地と思しき海や青いビニールシートにくるまれたものなど、震災を連想させる要素は登場するものの、直接的に何らかのメッセージを発信するものではない。だがしかし、震災後のこの社会の縮図のような上演形態により、暗黙の内に同じ方向を向くことを強要されるこの現代社会に警鐘を鳴らしているのかもしれない。