Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

揺らぐ境目/その周りで

1. 揺らぐ境目

 象の鼻テラスの 3面の外壁を兼ねる大きなガラス窓からは、象の鼻パークとその向こうの横浜港が広く見わたせる。Theater ZOU-NO-HANA vol.5『象はすべてを忘れない』(柴幸男(ままごと)演出、以下『象』)は 11月一杯の公開稽古を経て、12月前半の木曜から日曜にかけて公演された。筆者が立ち会うことができたのは 14日と 15日、楽日を含む 2日間だ。テラスから周囲の象の鼻パークまでを使って、20人以上の出演者によるさまざまなパフォーマンスが行われた。

 わけても「象の鼻スイッチ」は魅力的だった。テラスやパークの各所に(多くは、スタンプラリーに使う小型のスタンプ台のようなものに)設置された小物=スイッチに触ると短いパフォーマンスがなされる。たとえばテラス内で釣り竿を引くと屋外にいる出演者を釣ることができ(出演者が釣られた魚のような振舞いをはじめる)、太鼓をたたけばどこからともなく「日本一!」と合いの手がかかる。屋外に設置された額縁のような木枠を手にとると急に音楽が流れだして俳優が視界に走りこみ、覗きこんだ木枠のなかで短いドラマが演じられる。

 個々のスイッチにどのようなパフォーマンスが対応するかはブラックボックスなようでいて、じつはほとんど事前にわかっている。スイッチとパフォーマンスはオープンな場所に設置されて演じられるから、観客(となり得る人)は他の観客がスイッチを入れる様子をすでに見ているのだ。そうして慣れてくると、未知のスイッチが設置されてもすすんで押してしまうようになる。他の観客や子供たちがスイッチで遊んでいるのを眺めているだけでも面白いし、そのうちにまた自分もやってみたくなるかもしれない。すこし疲れたらソフトクリームやビールを頼んでもいいし、飽きたら散歩に出たり本を読みはじめてしまってもいい。

 その場に立ち会っていさえすれば、すべてのスイッチを入れることができ、すべてのパフォーマンスを楽しむことができる。だから上演を知っていて象の鼻テラスを訪れた人もいただろうし、偶然近くを通りかかっただけの人もいたはずだ。知らずに訪れて少しだけ試してみた人や、少しのつもりが長い時間を過ごしてしまった人、あるいは遠巻きに眺めていた人。そうして迷惑して遠回りした人や、迷惑すら感じることなく、自分と関わりないこととして突っ切った人も。

 象の鼻テラスの周りには、パフォーマンスと観客(となり得る人)との関係の結びかたが豊かに散らばっていたように思える。それはたとえば、劇場においては舞台と客席の間に、あるいは第四の壁と呼ばれるものの内に折りたたまれている二層の境界が、個別に扱われていたせいかもしれない。内側にあるものから数えて、一層はパフォーマンス(と観客、客席)の境目、一層はパフォーマンスが行われ得る空間(と行われ得ない空間)の境目である。

 『象』においてパフォーマンスの境目は、その時々によって変化していた。たとえば「象の鼻スイッチ」の時間には観客とパフォーマンスがおなじ空間に混在して、しかも両者のあいだに交流があったために境はほとんど無くなってしまい、パフォーマンスが行われ得る空間の境目と同化していた。その次の音楽ライブ(星野概念&シアターメンバーによる)ではメンバーたちがほぼ一個所に固定され、ために観客とパフォーマンスのあいだに一度境が生まれた。その後「象のぞうまとう」のテラス内でのダンスパートでは、カフェのテーブル席に座った観客たちの間を縫うようにダンスが行われた。このとき観客とパフォーマンスは位置関係としては混在していたものの、ダンスはあくまでパフォーマーのものであり、両者の境は客席とフロアとのあいだに生じていた。

 パフォーマンスが行われ得る空間の境目にも変化がある。「象の鼻スイッチ」の時間には象の鼻パークの、象の鼻テラスからだいぶ遠いところまでがその空間に含まれた(スイッチが設置され、パフォーマーが演じていた)し、音楽ライブでは一旦、象の鼻テラス内部だけに縮小された。その後「象のぞうまとう」について俳優が語りだす辺りから、また次第に象の鼻パークまで拡張された。

 劇場においてはさらに外側に、これら二つの境を内包する閉じた境界が引かれている。劇場外からの視線と観客の自由な出入りとを遮る、物理的な壁面である(もちろん劇場における壁面は、本来的には劇場内における上演・観賞環境をより最適にコントロールできる様に立てられているのだ(と思う)が、それが物理的な壁面である以上、視線や出入りを遮るものとしても機能してしまう)。『象』にはこの境界もない。なにかパフォーマンスが行われているらしいことは遠くからでもわかったはずだし、興味がわけば自由に近づくこと(そして、自由に離れること)ができた。

 二層が個別に扱われてそれぞれが境界としてあらわれたこと、時々によって変化したことに加えて、その外側の境界も取り去られていたことで、パフォーマンスに対する観客の立ち位置のバリエーションを広く取ることができたのだ。


2. しなくてもいい人

 場合分けが必要な事例を参照したい。居間theater『ヒルサイドパフォーマンスカフェ』(以下『ヒルサイド』)は代官山ヒルサイドカフェで上演された。居間theaterは谷中の HAGISOを中心に「パフォーマンスカフェ」を実施してきた。カフェ営業店舗の通常のメニューに加えて、パフォーマンスをオーダーをできる様にする試みである。パフォーマンスメニューは「ひとりじめ」「おすそわけ」「VIPルーム」と3種あり、「ひとりじめ」「おすそわけ」を選ぶとカフェ席のフロアで2~5分程度のパフォーマンスがなされる。間断なくパフォーマンスがなされるということではなく、連続することもあれば、しばらく静かに過ごす時間ができることもある。

 ヒルサイドカフェは一面がガラス張りで、その向こうに旧山手通りに面した中庭がある。小売りの屋台やワゴンが広げられ、誰でも立ち入ることができる。パフォーマンスはカフェ席からだけでなく、この中庭からもガラスを通して観ることができた(パフォーマーが外に出て、ガラス面のそばでパフォーマンスすることもあった)。

 パフォーマンスがオーダーの対象なので、観客(となり得る人)は「注文できる人」(カフェ利用者)と「注文できない人」(中庭にいる人)に二分される。「注文できる人」にとってパフォーマンスの境目はカフェ席とフロアとの間にあり、パフォーマンスが行われ得る空間の境目はガラス面のあたりにある。「注文できない人」にとってパフォーマンスの境目とパフォーマンスが行われ得る空間の境目はほぼ一致していて、ガラス面のあたりである。また中庭からの視線・動線を遮る物理的な壁面は存在しない。『ヒルサイド』において特徴的なのは、カフェに入店する/退店することによって、同時に存在している二つの観賞環境を行き来できることだ。

 パフォーマンスを注文しようとする観客(となり得る人)には少し負荷がかかるかもしれない。それは注文のシステムが観客(となり得る人)に対して個としての表出を要求するからだ。自発的に注文しなければならないし、注文したらパフォーマンスがなされるまで待ち札(ファストフード店などで、3番の札でお待ちください、というような)が置かれる。始め終わりにはパフォーマーとのささやかなコミュニケーションもある(かもしれない)。「パフォーマンスを注文する」という振舞い自体もどこか演劇的で、役を演じさせられているような側面がある。

 一方で「注文できる人」は必ずしも注文しなくてもよい立場である。利用客のなかにはカフェとしてだけ利用するつもりで訪れた人もいたのではないか。実際にパフォーマンスに目もくれず、お喋りを続けているテーブルもあった。ほかの誰かによって注文されたパフォーマンスが始まっても、せいぜいひと目遣るくらいで、すぐにお喋りに戻っていく。それもパフォーマンスとの関係の一つのあり方である。

 中庭にいる人は「注文できない人」で、そもそも「パフォーマンスカフェ」の仕組みもおそらくよく知らされていない。パフォーマンスが注文されたものであることもあまり把握されていなかったのではないか。観客に仕組みを伝えること/伝えないことによっても、また関係のあり様が変わる。


3. 伸ばした手の先

 異なる場合分けが必要な事例を参照する。F/T公式プログラムであるシアタースタジオ・インドネシアオーバードーズ:サイコ・カタストロフィー』(以下『オーバードーズ』)は屋外公演で、池袋西口公園に竹材を組んで特設舞台が設営された。西口公園のどこからでも、この巨大な竹組みの構造物は目に入る。俯瞰からみると長方形になるこの舞台のうち短辺 2辺には壁がなく、客席に入場しなくても外から舞台を覗きみることができた。

 外から観られるポイントはおおまかに 3個所あって、もっとも多い時間帯には合わせて 40人近くが舞台を覗いていた。公園の喫煙所からの視線も数えれば、50人近くは観ていたはずだ。もちろん客席から観賞するのと外から覗きみるのとでは、体験の内容は大きく異なる。特に終盤には演者から客席の観客へ、木の粉が手渡される演出があって、それを受けとって客席を後にすることと、その様子さえよく見て取れないまま終演を知ることの差は大きい。

 客席の観客にとってのパフォーマンスの境目およびパフォーマンスが行われ得る空間の境目は、舞台と客席との境目と一致する。けれどそれは終盤の演出で崩され、終演時には客席を含む空間までが境界の内側に含まれるようになる(あるいは終演後に退場してからも、体験が連続していると感じられたかもしれない)。外から覗いていた観客にとっては客席を含む特設舞台がいずれの境界としても機能したはずだ。外からの視線を物理的に遮る壁面こそ存在しなかったものの、客席/外の自由な出入りを制限する壁面は存在していたことには留意したい。

 外から覗いていた観客について詳しく見ていきたい。F/T12の F/Tアワード受賞団体であるシアタースタジオ・インドネシアによる F/T13公式プログラム『オーバードーズ』について、事前に十分に提供された情報を把握したうえで観劇していた人ももちろんいただろうし、事前情報を何も入れず、ただ通りがかりに物珍しくその光景を眺めていた人もいたはずだ。後者の人々が観ていたものはやはり同じ演劇だったのだろうか。彼らの視線はもしかしたら、大道芸を観る人のそれに近いものだったかもしれない。

 ここで大道芸を引くのは、観客とパフォーマンスの関わりかたについて参照したいからだ。演劇ではおおよそチケットが前払いで、大道芸では後払いである。前払いというのは、パフォーマー側は演劇を見せることを、観客側はパフォーマンスに必要なあいだ自身の時間の拘束を許すことを、互いに事前に約束するということだ。一方で後払いということは、パフォーマーは観客の時間をあらかじめ拘束できない=芸によって観客を惹きつけ続けなければならない、途中から観はじめた観客も惹きつけられる様に組み立てなければならない(そして観客は、惹きつけられて楽しんだ分は払わなければならない)、ということである。

 通りがかりに『オーバードーズ』を観はじめた観客はすこしでもつまらなく感じたらその場を立ち去ってしまったかもしれない(あるいは、結果的に最後まで見通すことになったかもしれない)し、他方で演劇として観ていた人は、当初から終演まで見通すつもりでいたはずだ。客席で観ていた観客ももちろん見通す気でいただろう。少なくとも 3パタンの観客が『オーバードーズ』を取り巻いていたのだ。

 果して『オーバードーズ』は、それを演劇として観ようとしていた観客にだけ向けて上演されていたのだろうか。もう少し射程を広げていたように筆者には思える。より具体的に言うなら、客席の観客と客席外の観客、そして客席外から眺める人々、の少なくとも三者に対して、三様の関係を結ぶつもりをあらかじめもって上演がなされていたように思える(一つの関係性のありかたによって三者と関係を結ぼうとしたのではなく)。あるいはたとえば舞台を眺めていかなかった、池袋西口公園を通ってどこかへ急ぐ人とのあいだにも、なにか関係を結ぼうとしていたのかもしれない。やり方はまったく違っているけれども、外側への手の伸ばしかたには『象』と通じるものがあるように感じられた。


4. その周りで

 ここまで、開かれた場所で行われるパフォーマンスと観客(となり得る人)の関係のあり方を見てきた。しかしそれは劇場のような閉じた外壁がある場所で行われるパフォーマンスでは関係のあり方がつねに一様である、という事ではない。例えば東京デスロック『東京ノート』ではパフォーマンスの境目が観客とパフォーマーの間に置かれ(身体が接触するほど近くにいるが両者の間に交流が起こらない)、パフォーマンスが行われ得る空間の境目と物理的な壁面がほぼ一致していた。ひとつの空間が舞台であり、客席だったのだ。ミクストメディア・プロダクト×東京アートポイント計画『三宅島在住アトレウス家』≪山手篇≫ではパフォーマンスの境目が主に観客とパフォーマーの間に置かれつつ、時折消失して両者の交流が起こった。パフォーマンスが行われ得る空間の境目はやはり物理的な壁面と一致していた。

 境目をどこに置くかということが問題で、もちろん開かれた場所のほうが自由に境目を置きやすいのだが、物理的な外壁が閉じているかどうか≒劇場で行われるか劇場外で行われるかはパフォーマンスと観客の関係を見ていくうえでは一つの要素、設定すべき境目のうちの一つにすぎないのではないか。演劇のまわりにある境目をすこしずつずらして置かれることによって、観客とパフォーマンスの関係もずらされ、そこで可能なあり方にばらつきが生じていく。

 もちろんそこに個々の観客がどのような姿勢でパフォーマンスに関わろうとしているか、というのもたいへん重要だ。それは必ずしも積極的である必要はないし、批判的な立場であってもよい。姿勢という言葉から連想されるようなしっかりした意思に基づいていなくてもいい。観客がそれらを表出させることによって、パフォーマンスとの関係性がどのような距離感をもって生じたのか、またそれがパフォーマーが用意した境目のまわりにどのように分布したのか。パフォーマンスの周りで揺らぐ境目とその周りに観客はどのように居ることができるのか、もう少し考えたい。

 

 

斉島明(さいとう あきら)

1985年生まれ。東京都三多摩出身、東京都新宿区在住。出版社勤務。PortB『完全避難マニュアル 東京版』から演劇を観はじめました。東京のことに興味があります。@

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■高山明氏(PortB)インタビュー:ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」02に掲載