Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

脱げるところまで脱いでしまった、そのあとで

 初めて制服を身につけたとき、なぜこんな高いお金を払ってセンスのない肌触りの悪いものを着なくてはならないのかと、とても不満に思った。文句ばかり言っていた。だが、割り切って着ていると次第に感覚がマヒし、慣れてくる。息苦しさを感じることもままあるが、それを脱ぎ捨てることは誰かが作り上げたルールからの逸脱を意味することでもあり、なかなか面倒くさい。だから、ルールから外れない程度にアレンジを加える。ボタンを多めに外したりジャケットを脱いだり、スカート丈を短くしたり、他のデザインを取り入れてみたり……しかし、それらを拒み端から無縁でいる、または脱ぎ捨ててしまうこともある。劇団「サンプル」による最新作『永い遠足』で描かれる家族像は、制服やスーツと似ている。本作では2つの家族が登場するが、彼らは、衣食住から身体器官、セクシュアリティジェンダーまで、様々に「着る」と「脱ぐ」の狭間をさまよう。

本作は、ギリシャ古典演劇『オイディプス王』を下敷きに創作された。ここに登場する人物たちは、『オイディプス王』と聞いたときに思い浮かべる、悲劇的で抗いがたい運命に翻弄される人々とは姿勢が少々異なる。身の回りに起きた不吉なできごとの元凶を探ろうとする主人公がおり、彼には母親と交わり成した娘がいること、その記憶を喪失していた主人公に、ある人物がそれを示唆することなどは、オイディプスの物語を彷彿とさせる。だが本作では、自らが禁忌を犯したと知ったあとも、主人公がその巡りあわせを呪い、暗闇を一気に転がり落ちていく様はみられない。避けがたい事実を前にしても皆どこかあっけらかんとしている。自分たちの身の回りに起こった所為にすぐ善悪の判断を下すこともない。手に余るものを前にして、どっちつかずのありさまを晒し続ける。

中学校の体育館を利用した舞台は、ビニール袋をかぶった上に耳を着けた自称電気中毒のネズミ・ピーターを語り部として進んでいく。車体に「サンプル」と刷られた電気自動車の荷台には、背中合わせに二つの居間が作られている。ひとつは、ピーターが飼われているノブオの家だ。実験用マウスを飼育する職に就くノブオは、亡くなった母・チヨコとの思い出を糧に生活を送る。どうやら父親はDVを繰り返したあげく、とうの昔に家から姿を消したらしい。ノブオはある日、職場のマウスが伝染病にかかり次々と死んでいく奇病の原因がピーターにあると疑いにかかる。ピーターは疑いを否定するものの、その後、ネズミではないがヒトにもなりきれない姿をした自分と似た仲間と生活すると言ってノブオの家を出ていってしまう。もうひとつの居間では、夫婦が口論を繰り返す様子が描かれる。主婦のキリコと警察官である夫のタケフミは、家出を繰り返す養子の娘・アイカに思い悩んでいたところ、突然現れた自称「桃太郎」の提案にしたがい、もめごとの原因退治へと出発する。ある日ピーターは、電脳空間を渡り歩くマネキン*1に出会い、ノブオには娘がいるという秘密を知る。伝えてはならないと言う約束と引き換えにマネキンから好物の電気を与えてもらうものの、ピーターは秘密を抱えきれずノブオに伝えてしまう。娘の存在を知ったノブオもまた、アイカを探しに出歩く。

小さな荷台の上で交互に示される2つの家族は、過去や役割、ルールに執着を示す。ノブオの場合、大晦日の晩、紅白歌合戦をBGMにソバをすすりながらちゃぶ台の向こうに母親の姿を見ているが、実のところ、彼の向かいに居るのは遺骨の入った箱である。キリコとタケフミの家では、タケフミが、娘とどう向き合うかについて、自らが考えた家のルールに則って対処すべきだと強い口調で諭す。家を掻き乱すのは、ノブオ家の場合はピーターであり、キリコ・タケフミ家の場合は花屋の店長(のちの「桃太郎」)だ。男はキリコのいる家に唐突に上がり込み、家庭事情に探りを入れ、アイカを取り戻すためであれば「一線を超える」と言い出す。そもそもアイカとの関係も不確かなまま、半ば強引に夫婦を家の外へと連れ出していく。前者は興味本位で行動したようにも見えるが、後者は自覚的な行動が描写される。他人の食卓に桃の缶詰を持ち込み、手づかみでむさぼり食ったあげく名乗った名前が「桃太郎」。明るい黄緑色と桃色がプリントされたジャケットを纏い、桃が大好きだと発言するものの、「桃太郎」を思わせる要素はわずかだ。この男は、自分で『これのどこが桃太郎なんだよ!』とツッコミを入れてみせる。自分はいま役を演じているのだということに自覚的だ。ネズミのピーターが、これから始まる話の設定をバラし、途中でネズミらしい容姿をはぎ取ってみせることで舞台の物語性を醒ます役割を担っている。『永い遠足』が、松井周(作・演出)の言う「『物語』や『役割』は、すべて暫定で、「(仮)」」*2であるという考え方を基に組み立てられているとすれば、自分の振る舞いが演技上のものであることを強調する桃太郎は、夫婦をはじめとする登場人物たちを、彼らが生きる「物語」の枠の外へ押し出そうとする産婆のような役割を担っている。

桃太郎の過剰な言動にそそのかされるように、夫婦(キリコとタケフミ)はある変化を起こす。中でも、夫・タケフミの変化は興味深いものがある。桃太郎一行がアイカを探しに出る道中、タケフミは女性として観客の前に姿を現す。アイカを取り戻すためにホルモン注射を打ったと言うタケフミは、父としてではなく母としてアイカと対峙する願望を口にし、なおかつ桃太郎に恋愛感情を抱いているらしい。観客の前にいるのは、金髪ボブに婦人警官の制服、ストッキングにピンヒールの出で立ちでハイトーンボイスを響かせる女性だ。どちらのタケフミも同じ俳優が演じているのだが、以前の、黒髪のオールバックに三つ揃いの黒いスーツを纏うタケフミは影も形もない。しかし興味深いことに、アイカの家出をめぐって夫婦ゲンカを繰り広げるときだけ、タケフミは以前のタケフミを思わせる言動をみせる。婦人警官の容姿のまま、ルールに厳しく野太い声でキリコの非を責めるタケフミが姿を現すのだが、ひとしきり言い終えると女性としてのタケフミに戻ってしまう。この場面を眼にしたとき、私はある小説の登場人物を思い浮かべた。吉本ばなな『キッチン』*3に出てくる、「えり子」だ。もちろん、舞台と小説では視覚イメージに大きな差が生じる。小説の場合、文章からイメージされる人物像や身体的特徴には、読み手によって大きな開きがある。一方舞台では、演じる俳優によって観客の受け取るイメージが限定される。

「えり子」は、妻の病死を機に「雄司」という本名を捨て仕事を辞め、何をするか考えた末に全身に整形手術を施し女性となった。そしてその筋の店を持ち、母親として残された一人息子を育ててきたという身の上をもつ人物だ。日常にはちょっとありえない服装(赤いドレス)と濃い化粧をし、「人間じゃないみたい 」*4と形容される容姿の持ち主として描かれる。女性となった後のタケフミのスカート丈やツヤツヤした金髪などの(街で見かける女性警官の姿と比べれば)過剰なファッションと、えり子にとっての制服である商売のためのきらびやかな衣装と化粧が、重なってみえた。もうひとつ、タケフミにえり子の姿を思い浮かべた大きな理由がある。「えり子」は、ストーカーに殺されるかもしれない危機感を前に、一人息子に宛て遺言状を書く。そこには、「女性として生きていてもこれは役割であって、心のどこかには男の自分がいると思っていたが、いざ男言葉で手紙を書こうとしたら恥ずかしくて筆が進まない」心境が、母の立場から綴られる。母親であることは、えり子にとって生きる上での選択肢であり、ひとつの役割だった。だが彼女の場合、役割を外そうとしても男性の心境に立ち戻ることはできず、女性として人生を終えていく。一方『永い遠足』のタケフミの場合、性を変更するが、言葉遣いや立ち振る舞い、それまでの言動など、自分が男性であり父親であった頃の記憶を保っている。彼は心身に女性性を抱え込んだまま、父親としての役割と母親としての役割のあいだを行き来する。ここに、本作のタイトル『永い遠足』を思い起こす。

本来ならば「遠足」とは、日帰りで目的地へと向かい同じ場所へと戻ってくる道のりを指す。だが、特に荷物も持たず家を後にした彼らは、最後までどこかに腰を落ち着ける素振りを見せず、さまよい続ける。同じ場所と言っても、人も物も環境も、連続しているようにみえるだけで瞬間瞬間で切断されており、おなじようにそこにあるものはない。それでも、いつもの家に帰って同じ寝床で同じ顔をみて眠りにつく(ようにみえる)ことに安心感を覚える。しかし、性を変え姿を変えたタケフミにとっては、「元の場所」はあまりにも遠い。ノブオやピーター、アイカらも同じだ。家を出たノブオは、実の父親であることを隠しアイカと会い、金銭と交換に「親子プレイ」をする。二人は、それまで纏うことのなかった役割を纏う。しかし、プレイだったものが血縁関係に基づく「役割」で永続的についてまわるものだと明らかになったとき、新たな着脱がおこなわれる。ちょっとした遠出程度の気持ちで家を出たものの、家を去ってからの出来事とそれ以前をまっすぐ繋ぐには、彼らはあまりにも遠くに来てしまったのである。

こうしてすべての関係があばかれたのち、肩を支えられ歩く盲目のノブオのすがたが暗闇に浮かび上がる。彼は途中、失った両目に代わり、ピーターが置いていった人口のiPS細胞で作られた眼球を入れようとするが、上手く扱えず手から取りこぼしてしまう。その手を取るのは、名前を唯一の友だちに譲り渡したアイカだ。目に映るものを取り除いてしまったノブオと名前のない相棒が、暗闇のなかを歩いていく。もともと見えていたものが見えなくなる状態や、もともとあった名前を呼べなくなる状態は、想像するだけでも落ち着かない。ノブオは自らの手で両目から光を消してしまう。『オイディプス王』に倣う行為ともとれるが、複数用意されていたiPS細胞でできた眼球を手にしても、彼は戸惑いのうちに盲目であることを選択した。視力があれば、帰るための道筋を探そうとしただろうか。アイカはアイカで、名前を譲り渡したあとに自分で新たな名前を名乗ることはできたはずだ。だが、彼女は名前のない時間を選択した。舞台の上で、名前を棄てたあとに彼女の名を呼ぶものはいない。二人はそれぞれに脱げるところまで脱いでしまったあとで、何かを「着る」行為は手に余ったのかもしれない。彼らの遠足は横へ横へとはみ出し、終わるところを知らない。

 

参考文献

現代思想 特集:人間/動物の分割線』青土社、2009年7月号

『トランスフォーメーション』ACCESS、2010年

松井周(責任編集)『雑誌サンプル vol.1 特集:変態』サンプル、2013年

*1:冒頭、始終携帯を手放さないアイカにとって、マネキンが唯一の友人で話し相手であることが描かれる。

*2:F/T13サンプル『永い遠足』ハンドアウト インタビューp.3

*3:吉本ばなな『キッチン』(2002, 新潮文庫

*4:同上、p.19