Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

【対談】F/T13公募プログラム全演目&F/Tアワードを語る[part1]

 フェスティバル・トーキョー(以下F/T)では2010年度から、40歳以下のアジアの演出家を対象にした公募プログラムの上演を行っており、アジアの若手カンパニーの作品を日本で観る機会となっている。公募プログラムの詳細はこちらのF/Tのページを参照。

 最も新しい価値を創造したと認められる作品には、F/Tアワードという賞が与えられ、次年度のF/T主催プログラムとして招聘されることになっているが、果たして国境を越えて作品を評価するとはどういうことなのか?アジアにおける「同時代性」とは何なのか?落 雅季子の提案により、山崎 健太との対話形式で、今年度のフェスティバル・トーキョーの公募プログラムを振り返り、批評言語の獲得を試みる。なお、本文は往復書簡として、12月18日から12月29日までにやりとりしたメールに追記、再編集したものとなる。(掲載は全三回)

 

★[part2  公募プログラム海外演目編]はこちら

★[part3  F/Tアワードと演劇批評の未来編]はこちら



落:今回話したいのは、F/T公募プログラムの審査に関して。アジアに根ざした公募プログラムの意義は理解できるけれど、昨年(シアタースタジオ・インドネシア[インドネシア])、今年(薪伝実験劇団[中国])と、日本以外の作家がF/Tアワードを獲っていて、そうなると、今は日本の若手作家の考えるべき問題が見えづらい時代だと前から思っているの。何を考えてもアジアの文脈にはなりえないのか、それが日本の作家にとっていいことなのか、分からない。特に私は、今年の薪伝実験劇団の作品の受賞に全然納得していなくて、講評会の動画を見ても釈然としないのです。まだ審査員の文章での講評は出ていないけれど、映像レベルでは言葉も時間も足りないように感じた。ふたりとも全部見ているわけではないけど、私と山崎君で今年の公募作品はコンプリートしているので、とりあえずは山崎君が見た演目とあわせて印象を擦り合せたい。

山崎:本題に入る前に、俺のスタンスを改めて。今回の『地雷戦2.0』がよかったかと聞かれたら俺にもいいとは思えなかったというのが率直なところ。でも一方で、俺にとって趣味判断を越えて批評たり得る判断として「よくなかった」ということを言うのは極めて困難だとも思ってる。と言うか自分としてはいい/悪いの判断自体が批評には馴染まないものだと思っていて、それは批評にできるのはそこで何が起きている/たのかを分析することでしかないと思っているからなんだけども。もちろん、その批評がさらに別の効果を持つことはあるにせよ。だから、よくなかったと感じられる作品について何かを語るのは俺にとっては極めて難しい。そこで何が起きているのかがわかっててなお面白くない、と言うとき、その「面白くない」は趣味判断でしかないんじゃないかという気分があるわけです。
 一方、何やってるかわからないから面白くないという場合もあり得るわけだけど、こちらはこちらで作り手の力不足なのか批評する側の力不足なのかというまた別な問題が生じてくる。しかもこちらに関しては現状圧倒的に見る側の、あるいは語る側の力不足(力のある人の人員不足)だろと思わなくもない…。ともかく、この辺を踏まえて、公募の話をするのであれば、俺に出来るのはこの作品のここがよかった、というかこの作品ではこういうことが行なわれていた、ということを具体的に指摘していく作業しかないのではないかと思っているのだけど、落さん的にはどうですか?

落:いつもながら対象との距離がきわめて明確な態度だね(笑)。それはともかく、もちろん、作品ごとに行われていたことの指摘は重要だし、お互い見落としがあるかもしれないものね。二人とも共通して観ているのは、と、sons wo:と、薪伝実験劇団の三演目なので、それ以外の団体について、注意深く具体的に報告しあうようなことをしてみましょう。そのうえで、指摘されたその「演出」行為が、山崎くんあるいは私にとって、どの程度「効果」を挙げていたように見えたかということを話すことは、OKですか?

山崎:具体的な報告をし合うことは了解。ただ、俺興味持てないとすぐ細部を忘れるからあまり自信なかったりもするのだが(笑)。ま、やれるだけやってみましょう。「どの程度効果を挙げていたのか」についても、いい/悪いと同じでなかなか難しい、というかそこに個人的な主観が入ってきちゃうとこもあると思うんだけど、こちらもその都度検討していきましょう。

落:公募の話とは別に、さっきの趣味判断を越えて批評足りうる評価をしていく話もしたい。公募プログラムは、アジアの演劇を東京に集めることも目的だけれど、賞で順位を評価するための軸の共有が大切、ということを講評の映像で相馬千秋さん(F/Tプログラムディレクター)が言ってたから。

山崎:評価の軸については順位をつける以上、明確にする必要があるとは思っていて、アップされている講評会の動画ではそこがいまいち明確にはわからなかったのがよくなかったとは思う。評価の軸をきっぱりと打ち出してそれに沿ってきちんと評価するのがあるべき姿だとは思います。でもさらに言えば今度はその軸が適正かどうか…という話にもなり得るから話はややこしい。

落:評価軸に関しては、その作家自身に固有の問題意識がどう見えてくるか、その立ち上げ方がどの程度魅力的で成功しているかということから私は考えたいかな。だから、アワードについて「“反戦”というテーマにおいて普遍的」と言われてもあまり説得力を感じない。中国のリアリティと、日本の切実な問題は違うと思うから。

山崎:俺も、評価軸を立てるとすればねらいとその達成度で測るしかないと思う。環境が作家の問題意識に与える影響はもちろんあるけど、その環境の幅はさまざまに設定できるわけだし。ただ、当然のことだけど作品の背景についての理解の程度が作品の「ねらい」をどの程度読み取れるかに関わってくるし、作品が固有と普遍の間のどこに位置するかという問題もある。どちらがいいと言うわけでもなくね。個人的には単に固有/普遍なものではなくて、固有性の中に普遍性が、あるいは普遍性の中に固有性が見えるものが優れた芸術だと思ってるのだけど、その意味で、中国の作品はあんなに普遍に寄せなくても、つまり何でもかんでも詰め込まなくても普遍的たり得たとは思うけどね。

落:でも固有性の中に普遍性を見つける、ということで言っても日本人作家の持っている問題意識や生きづらさが薪伝実験劇団の作品で描かれたものよりも、比較した結果、軽んじられるべきではないよね。

山崎:だからそもそも比較不可能なんじゃないの?というのが個人的な見解。それぞれの作品の中での成否はあっても、それを他の作品と比較して優劣をつけるのはそもそも無理筋だと思う。

落:えー、じゃあどうしよう(苦笑)。でも、作品ごとの上演振り返りから始めてみよう。まずは日本勢から。

 


※各自、観劇したものは各演目名称の直後に○、未見の場合×を記した。

■柴田聡子『たのもしいむすめ』[構成 柴田聡子]
2013.11.26〜11.27@アサヒアートスクエア

[落 ○ 山崎 ×]


落:出演は柴田聡子ひとり。薄暗い舞台で、彼女がギターを抱えてしばらく弾き語りをしたあとに、30分くらいのポエトリーリーディングに似た朗読パフォーマンス。いわゆるライブ的な「今日はありがとう!」みたいなノリは全くなくて、暗い中にひとつだけ垂らした、舞台美術としての電球を揺らしたりして淡々と歌う感じ。終演後に彼女は「おみやげがあります。」とアナウンスして、出口でひとりずつに演目の内容が収録されたCDと、テクスト(日本語と英訳の両方)が印刷された紙の入った封筒を配った。朗読部分ですが、ギターのフレーズは短いものをずっと繰り返していて、テクストは一人暮らしの女の独白っぽいものから延々と広がって行く感じ。反復し続けるギターと、前に転がりつづけるテクストを聞いて、これは「反復する音楽の快楽」と「展開しつづけて同じ光景の出てこない戯曲」が併存している状態だと思った。どちらかというとここ数年の演劇って、その「反復」か「展開」の二つの間を葛藤していたように思うので、新鮮だった。

山崎:反復の程度にもよるけど、それは大ざっぱに言えばポップミュージックの基本形にも思うんだけどどうなのかな?それか話だけ聞くとたとえばチェルフィッチュ『三月の5日間』の語りにここで言う「反復と展開」に近いものがありそうだけどそれともまた違う?

落:柴田聡子のその語りは、歌詞(テクスト)にまったく繰り返す要素がなくて世界観がどこまでも転がって行く感じだったの。反復による畳み掛けも劇的な展開もない、音楽にも言葉にも寄りかからない、自由な状態が作られていて、聴いている観客にもその自由は与えられていた。聴いているだけで自動的に身体が乗ってしまうリズムが刻まれているのでもないので、ギターや柴田聡子の声から劇性を立ち上げることについては、観客に委ねられている部分が広いというかね。その彼女の語りによる一本の道がどこまでも続く感じが、暗いアートスクエアの情景とあいまって、広いというか深くてしみじみ良かったんだよね。

山崎:趣味判断とギリギリな気もするけど(笑)弾き語りの「語り」が「物語」を立ち上げる契機を孕んでいた、ということかしらん。ちなみにベケットの母国アイルランドには語りの伝統があって、ベケットの作品にひたすら語るだけのものが多いのはその影響だという話もある。これは余談ね。佐々木敦さんが、ライブをパフォーミングアーツのコンテクストに乗せるってのがコンテクストの操作で勝負してるって意味ではデュシャンみたいなもので、「おみやげ」のCDが上演台本みたいな機能を果たしてたんじゃないかって言ってて(佐々木敦(@sasakiatsushi)/2013年12月02日 - Twilog)、俺は柴田聡子は見られなかったけど、そういう風に見るならアワードとしてはなくはないかな、と思ってた。

 


■Q『いのちのちQⅡ』[作・演出 市原佐都子]
2013.11.29〜12.01@アサヒアートスクエア

 [落 ○ 山崎 ○ ]

 

落:チャンピオン犬のジョゼフィーヌとフィアンセ犬のマイクの話、回転寿司屋のマダムの話、ノリノミヤと名乗る犬とその飼い主の話など、盛りだくさんだったね。9月の「God save the Queen」(以下GsQ)でやってた『しーすーQ』のような異種交配の話もあったし、犬たちの近親交配とか、カラオケシーンとか舞台を走る自転車とか、強いエネルギーがあった。だけど私には、市原佐都子の扱いたいモチーフが散逸しているように感じた。表したいものがたくさんあることは分かるけれど、「取捨選択」は大切だと思う。全問題意識を平等に入れこみたくなってしまうフェアネスさと、それが出来てしまう賢さが窮屈そうだった。モチーフの全部を語っても、一つ一つのことが結局は分からない。Qに限らず、鳥公園(『カンロ』2013.10)やマームとジプシーの最新作(『モモノパノラマ』2013.11)でも生殖のモチーフは使われていて、それにまつわる一種の血なまぐささや、遺伝子を受け継いで行く先の未来への不安って今の日本の作家に結構蔓延しているように思う。

山崎:俺はQはGsQと映像しか見たことなかったから今までとの違いとかはわからないけど、盛り沢山だとは思ってもそんなに散漫だとは思わなかったんだよね。もちろんもう少しバランスは考える余地があったと思うけど。と言うのも異種交配とか扱ってるテーマからすると、作品の構成自体が歪なのも全然ありなんじゃないの?と思うからで。今回の舞台自体、パノラミックな構成で=横の移動でつながる3つの場所に、建物の二階という縦の移動と映像がコラージュされてて、その異物感が面白かった。メインに置かれた犬の話がインパクトあり過ぎるから回転寿司まわりのエピソードが余計に感じなくもないんだけど、削るよりむしろもっとぶつかる位強いものにしちゃった方が面白いんじゃないのかなー、と思う。モノローグとか反復誇張される動作とかを配置するQの手法自体が異種交配的だと思うのでテーマも異種交配しててもありなんじゃない?ってことです。サンプル(劇団)は境界が溶け合うイメージだけど、そうじゃなくて個々バラバラのまま交わる異種交配の可能性があるんじゃないかなー、と。作品としてはモチーフが一貫してた方がわかりやすいんだろうけど、そうじゃない面白さを感じました。

 

 

■子供鉅人『HELLO HELL!!!』[作・演出 益山貴司]
2013.11.28〜12.02@シアターグリーン

[落 ○ 山崎 × ]


落:これは、子供鉅人のいくつかあるパターンのうち「音楽劇」のジャンルでした。2012年の『幕末スープレックス』という音楽劇のほうがエンターテイメント的な面白さはあったけど、まあそれは趣味の話だね。演奏者を入れて30人以上のステージをマネジメントしきる、という演出の益山貴司の技量は素晴らしいと思った。物語は、死んでも何度でも甦ってしまう地獄で働き続ける亡者たちの話で、「何をしても死ねない怖さ」が物語の根底にあります。でも、たとえば子供を何度も殺して保険金を受け取りまくっている夫妻が無邪気にかわいく描かれてたり、色狂いの男が、騙した女を犯しながら、さらに刀で刺されたり、放射性廃棄物を地獄の倉庫に運ぶ描写が出て来たりして、そういうのを観ると益山さんの良心ってぶっ壊れてるんじゃないかと疑いたくなる。そんなのが陽気な音楽に乗せられてこちらも非常に楽しくなるものだから、空恐ろしく感じるんだよね。子供向けに猥雑なものを除去する前の、民話みたいなヴィヴィッドな怖さがある。

山崎:講評会で審査員のリー・イーナンさんが「ミュージカルという手法が商業主義や消費主義のテーマを表わしている」って言ってたけど、もう少し丁寧に言うと、商業演劇=資本主義消費社会の枠組みの中にあるミュージカルという形式で資本主義消費社会を戯画化して描くって手法自体が極めて批評的だということだよね。見た目の楽しさと内実の非道さという点で今回の作品の形式-内容のギャップがそのまま資本主義消費社会の矛盾を描くこととパラレルになってるんだと思う。

 

 


■sons wo:『野良猫の首輪』[作・演出 カゲヤマ気象台]
2013.12.04〜12.07@シアターグリーン

[落 ○ 山崎 ○ ]


落:これは、審査員の飴屋法水さんがとても推していたよね。「匿名的な何でも無い人だけど、交換不可能である、そこの間にまたがった表現というのが僕にとって重要で、それを感じました。言葉があるというよりは目の前のあたりで鳴っているような不思議な体験でした。」ということを言っていた。あのカクカクした不思議な発話が、人間の悲しみや不条理な世の中の虚しさを増幅させるということに成功するということもあると思うし、実際観たこともあるけど、今回は途中から同じ調子で語られる台詞が耳で捉えにくくなっちゃって、虚しさが増幅するのではなく、拡散してしまったように思う。音楽も、一番盛り上がるところでぷつっと切って、ある情緒が組み上がりそうになる瞬間にその枠が壊されるということが繰り返されたので、そのことによって、演出家が組もうとしていた枠自体が浮かび上がるような効果が上がればよかったけど完全に成功していたとは言えなかったな。あと、彫刻もちょっと謎だったね。…なんか、趣味判断から離れるってやってみると難しいな!

山崎:趣味判断というか、主観的なもので他者を説得することはかなり難しい。人によるじゃん、と言われたら反論できない。飴屋さんが講評会で言ってたのは「母国語をそうじゃないもののように扱う」というようなことだったけど、一言で言えばsons wo:の手法というのは言葉と身体を「異化」することなわけで、そういう意味ではものすごく大ざっぱに言えば地点と同じ方向性だと思う。地点と違うのは、sons wo:の「異化」がミニマム/ミニマルな表現の形をとってるから観客の注意を引き続けることが難しい、というとこなんじゃないかと思ってる。

落:今のミニマム/ミニマルの話、もうちょっと教えて。

山崎:地点の発話/身振りが強固な意志、あるいは役者の自発性に支えられているのに対して、sons wo:のそれはそのように見えない、というかおそらく役者の自意識みたいなものの発露を可能な限り抑え込む方向性の手法で、結果として役者の身体は身体自体や言葉に内在する微細な振動を拾いあげる「受信機」と化している、というのが今回の舞台を見ての印象で、『野良猫の首輪』の方向性が暗黒舞踏の目指す方向性と近似していると俺が感じた点なんだけど、ここまで来ると抽象的なイメージの話になっちゃって説得力に欠けるなあというのが個人的に思ってることで、だから自分がこれまで劇評を書くときはなるべく触れないようにしていた方向性の話。でも、暗黒舞踏みたいに身体/言葉を役者自身にとって「異化」しようとすると微細な感覚を研ぎ澄ませるというか「耳を澄ます」みたいなことが必要だし、だからこそ、これも飴屋さんが言ってたことだけど、観客の耳元で言葉=音が鳴ってるように聞こえるって事態が起き得るのだと思います。まあしかし、やはり身体の話を説得的に語るのは難しいよ。俺には役者の身体は受信機のように見えました。身体/言葉が疎外されている、あるいは身体/言葉から疎外されている状態が戯曲の内容(地球からの放逐)とマッチしてて、今回のsons wo: でよかったのはそこだと思う。放逐されたもの(=野良猫)にそれでも残るもの(=首輪)は何なのかを探る試み。フリーな客席と彫刻もその一環と見ることは可能だと思う。大きな二つの彫刻はそれぞれ鉛筆と矢印を彫刻として作り直したもので、その作り直しという作業を「残るもの」を問う試みだと見なすことはできる。あまり効果的だったとは思えないけど…

落:「身体と言葉の放逐が、戯曲の内容とマッチしている」のはよい指摘だけれど、そう思うと、身体と言葉だけでちゃんと実現出来てることであって、客席・舞台の反転とか彫刻とかのアイディアはほとんどいらなかったんじゃないか、というのが明らかになるわね。

山崎:俺があの作品はあまりうまくいってないと思ったのは主にそこが理由。

落:『野良猫の首輪』というのは、寄る辺なさの底に残るもの、という意味の詩的にして秀逸なタイトルですね。

山崎:残ってしまうもの、という印象かな。首輪だし。


 

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