Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

虚しい廃墟 −『石のような水』

 この演目はソ連の映画監督、アンドレイ・タルコフスキーの2本の映画を元に構成される。一本は1979年製作の作品、『ストーカー』。隕石の墜落によって、その墜落地帯の周辺に出現した特殊な地区「ゾーン」。その中心には「部屋」と呼ばれる場所があり、ここにたどり着いた者は、自らの願いを叶えることができる。しかし、この願いの効能というのはアラジンの魔法のランプのように、本人が申し出た願いがそのまま叶えられるといったものではなく、本人さえ知らないその人の潜在的な欲求が叶うというかなりスピリチュアルなものだ。主人公の男は、このゾーンへの案内人「ストーカー」という職を生業にしている。放射能汚染の寓意を思わせる「ゾーン」であるが、チェルノブイリ事故の10年前に製作された映画というのが興味深い。もう一本は1972年製作の『惑星ソラリス』。惑星ソラリスを監視する国際宇宙ステーションに派遣された心理学者の主人公は、ステーションのなかで、彼の亡くなった妻をはじめとする様々な幻覚と出会う。その幻覚は、ソラリスを覆う「ソラリスの海」と呼ばれる謎の物質によってつくり出されるものだとわかる。幻覚をつくり出す正体不明の物質と人間との交流を描く、大変抽象度の高い映画だ。

 先に挙げたその両方がSF映画と呼べるものだ。ここで用いられるSFの設定は、現実の空間とはまた別の(パラレルとも呼べる)精神世界を想定したものだろう。抽象的な概念を通して出会う精神的な「向こう側」の世界という感覚は、彼岸と此岸の概念を連想させる。もう一つ、両者の共通点としてあげたい項目がある。それは今回の劇の上演、タルコフスキーを題材にした劇を現代の日本で上演することにもかかわる。核の問題だ。『惑星ソラリス』の小さなエピソードとして広島の原爆への言及がなされる。『ストーカー』では前述の通り、「ゾーン」そのものが現代ではチェルノブイリを連想させる。また劇の途中にあらわれる木のモチーフにも注目したい。タルコフスキーの別の映画『サクリファイス』にもよく似た木が登用する。これもまた、その映画の主人公の老人が、日本での原爆投下に追悼を意をこめて植えたという設定が組み込まれている。しかし、今回の上演では、表象やモチーフから連想された時事的な問題が劇中で直接取り上げられるようなことはなかった。

 『石のような水』は『ストーカー』同様の「ゾーン」が出現した東京を舞台に、実質の「ストーカー」業と会社員を兼業する主人公の男、彼を中心に彼の会社の同僚、彼の妻、その姉、彼女の同居人である映画監督といったプチブルの都市生活者をめぐるメロドラマとして仕上がっている。舞台美術はとても魅力的だった。石の表面が作るオブジェのような大小様々の階段が左右にゆるやかなシンメトリーを左右方向に形成し、照明と表面のくぼみが作る影の些細な変化だけで、風景が都市に、空に、遺跡に、寝室に、街路にと、万華鏡のように移り変わる。移り変わる景色の中で登場人物のエピソードをバラバラの視点から断片的に紡ぐ群像劇は、それこそ映画のシーンの羅列を思わせる。

 この劇における「ゾーン」の設定は「ソラリス」と「ストーカー」の設定が折衷されている。「ゾーン」の奥にある「部屋」にたどり着いた人は、その「部屋」の外に降る雨水を牛乳瓶に拾って飲むと、飲む間に「その人が本当に会いたい人に会っている光景を目撃できる」。しかも、その光景は「その人が水を飲んでいる間に『ゾーン』の外の現実の世界で実際に起こっている」というものだ。観念的で、にわかには理解しがたい設定だが、劇中の現実世界である都市からは「ゾーン」が異世界であるように描かれること、それに加わる上記の「ゾーン」の機能が、まるで幽体離脱のような仕方で人間が同時に複数の場所に存在しうるような霊的な世界を連想させる。都市の生活とゾーンの中の神秘的な空間の持つ彼岸と此岸を連想させるような関係は興味深い。しかし、私は劇中の都市生活に、実感の伴った興味を持つことができなかった。メロドラマとして描かれる都市生活者の人物像はどこか古くさく、時間とお金を持て余し、自己陶酔気味に凝った台詞を喋るプチブルという印象を受ける。その中では、「ゾーン」の機能も「精神世界」としての内省的なものばかり、印象が強くなる。

 抽象的な世界観をはらみながら、緻密に構成された都市生活者のメロドラマとして、それが移り変わる美しい情景と共に醸成されていくことも含め、作品自体はとてもよくできている、と感じた。しかし同時に、整った作品だと感じれば感じるほど、安全な場所で綺麗なものがつくられていること、否定的な意味での「高尚な」見世物に収まろうとしている感も強まった。背景には明らかに時事問題を孕んでいると感じさせるということが、どんどん作品のネックになっていく。作品が、メロドラマとしてそれが精緻に出来上がれば出来上がるほど内省的に、現実とはかけ離れたどこか遠くの物語になってしまう。切実な現実の問題がまるで実感の伴わないきれいなものの中だけで語られる光景、それをただ傍観するだけの孤独な体験に私はあまりいい印象を持つことはできなかった。

 

伊藤 元晴(いとう もとはる)

1990生まれ、京都府京都市在住。大学生。象牙の空港(http://ivoryterminal.bufsiz.jp/)主宰。

http://pac.hatenablog.jp/entry/2013/11/09/140208