Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

マルセロ・エヴェリン/デモリションInc.『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』

 演劇にしろダンスにしろ、一方的に「見る」体験であることのほうがずっと多いのだが、そんな中でマルセロ・エヴェリン「そしてどこもかしこも黒山の人だかりとなる」は「見る」と同時に「見られ」もする奇妙な体験となった。

 会場は真っ暗なブラックボックス、天井からつり下げられた蛍光灯、蛍光灯に囲まれたこの狭いスペースが客席であり、舞台でもある。そこには、例えば一人に一つ与えられた椅子のようなもの、客席と呼べるようなものは一つも見当たらない。部屋に入ったときからぺたぺたとどこからともなく聞こえていた音の正体は、お互いの手をつないだままうろうろと踊り回るダンサーたちの足音のようだ。背格好もばらばらの、日本人とラテン・アメリカのダンサーの混合と思われる彼らの一糸纏わぬ裸体はどれも真っ黒に塗られている。最初のうちは遊ぶように、ひとかたまりになって動き回る彼ら。しばらくすると、また別の動作を始める。例えば、立ち止まってお互いの体を愛撫するように内側によせあったり、床に寝転んで暗黒舞踏のようにのたうち回ったり、スペース内に散らばって各々別の動きをはじめ、観客を演者ほうから凝視しはじめたりといった具合に。やがてダンサーたちが、お互いに走り込んでぶつかりあいながら、猿の縄張り争いのような激しい抗争をはじめると、演目は緊張とともにクライマックスをむかえる。争いが一通り激しくなったあと、スペースの外にいた一人のダンサーが彗星のように争いの中心に衝突する。そこで彼らの激しい体の動きは一瞬で静止し、全員がその場に倒れ込む。パフォーマーの全員が横たわってしばしの静寂が訪れたあと、いくつものダンサーたちの死屍累々の中から、一人、また一人と立ち上がると、彼らはまたそれぞれに再びゆっくりとした動きを取り戻す。そして、一人ずつ、その蛍光灯に囲まれたスペースから去り、誰もいなくなったところでパフォーマンスは終演する。

 見終わってから、観客である私を取り巻く環境が、演目の間中、ずっと変化し続けていたという感覚を覚えた。例えば、演目の最初では塊になって踊る彼らをじっと見つめていた私も、動きが静まると彼らの顔や裸身の一部を細かく覗き込むようになり、あるいはこちらにぶつかってくる彼らをよけてみたり、向こうから投げかける視点にこちらの視点を合わせたり、反対に視線をわざとそらしたり、またはダンサーたちの背後で、他の観客はどのようにダンサーを見ているかを観察といったことを自然としていた。観客とダンサー、又は観客と他の観客の関係は、上演中、絶えず変化し続けたのだ。終演後、私は不思議と心地よい開放的な気分に包まれていた。この気分の変化の原因はなんであったのだろうか。

 パンフレットに「作品タイトルは…エリアス・カネッティの著作『群衆と権力』(1969)の一節から」とある。該当箇所は「開いた群衆と閉じた群衆」という項目に見つかる。群衆、つまり自然発生する人だかりについての分析からはじまる本書、この項目では自然発生的に周囲をとりこんで拡大していく「開いた群衆」、その集団の規模の拡大は必ず崩壊につながること、その突然の崩壊を免れるために集団の内外に生じる境界を明確にすることで、できるだけ自分たちの存続をより確実にしようとする「閉じた群衆」を論じている。

 演目の序盤、内側を向いて踊るダンサーたちは、それだけで一つの群衆であった。一方で、別々にダンサーたちを観察しようとスペース内を動きまわる観客も、それがお互いにぶつかりそうになることを避けながら歩き回ることが特徴付けるように、ダンサーたちとは別に、一人一人、個別の存在として行動するものであった。私たちが慣れ親しんだ劇場—そこでは舞台と客席とがはっきりと分かれ、一人の人間に一つの客席が与えられている—の空間はもともと、観客が演目の最初から最後まで一人一人が個別の存在であり続けること、客席が舞台上から一方的にパフォーマンスを享受し続けることを許してくれていた。しかし、エヴェリンは、まず会場のなかから客席の椅子を排除し、客席と客席との境界も、舞台と客席との境界も取払って、観客とパフォーマーを同じ一つの空間に投げ込んだ。スペースはその内側になんの「境界」も持たない。エヴェリンが創りだした空間の中で、私たちは見知らぬものとの接触への不快感を必要以上に覚えていることを発見する。それは、自分たちがいかに個別に閉じた存在であったかということの再発見でもある。完全に一人一人の存在として孤立し続けることができなくなった私たち、観客は、他の観客やダンサーたちとの関係のほうへと開放させられていく。「開いた群衆」であるダンサーたちのなかに取り込まれていくのだ。

 エヴェリンは、この演目を使って「閉じた群衆」を「開いた群衆」へと、緻密な計算の元に大変巧妙に取り込んだ。私が終演後に感じた心地よい開放感は「閉じた群衆(あるいは個人)」が「開いた群衆」にとりこまれる感覚であったようだ。ここで、この演目が言葉を一切使わないものであったことを今一度強調したい。言葉を用いなかったために、観客とパフォーマーが一体化する喜び、ほとんどの舞台芸術に含まれるようなこのシンプルな要求が、純粋に感覚的に近い状態で、それゆえの繊細さとショックをともなって結実したことをふまえて、やはりこの体験は希有なものであったことを強調したい。 

 

参考文献:「群衆と権力(上)」1971 著者:エリアス・カネッティ、訳者:岩田行一、発行:法政大学出版局