Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

〈旅〉から〈遠足〉へ −サンプル『永い遠足』

1,はじめに 『永い遠足』周辺のテクストから

 サンプル『永い遠足』は『オイディプス王』をモチーフとして用いた作品であるが、その『オイディプス王』の物語における〈旅〉が問題とされる時、それは英語圏においては一般的に「journey」という語によって語られる。そして「trip」という語は、ほぼ確実に用いられない。例えば『Oxford English Dictionary』において「a journey or excursion, especially for pleasure」と説明されているように、「trip」という語には小旅行、気晴らしといったイメージが付随していて、『オイディプス王』に描かれた劇的な、運命的な〈旅〉にはそぐわないのがその理由だ。まして「field trip」、〈遠足〉などといった言葉が使われるはずもない。

 松井周作・演出のサンプル『永い遠足』について語る本稿を、「journey」と「field trip」、〈旅〉と〈遠足〉の差異から書き始めたのは、サンプルのウェブサイトに掲載されている『永い遠足』のメイキング記事に、以下のような記述があるためである。

新潟入りした時点では『永い遠足』というタイトルも確か『グレイトジャーニー』というような仮タイトルで、F/Tでの上演を前提に全て視野に入れていたわけではありませんでした。

連夜、旧上郷中学校のコンピュータ教室で打合せをする中で「永遠」と「遠足」を掛けた『永い遠足』というタイトルを思いついた、というような具合です。

「『遠足の練習』から『永い遠足』への旅(2)」

『遠足の練習』は『永い遠足』に先立って書かれ、新潟で上演された作品であるが、ここで注目したいのはもちろん、『永い遠足』というタイトルの前に『グレイトジャーニー』という仮タイトルがあったことである。『グレイトジャーニー』から『永い遠足』へ、「great journey」から「long field trip」へ――この移行は、単にタイトルの変更というだけに留まらず、松井周の思想を表すものともなっているだろう。

一番嫌なのは、脱ぎ着ができない物語を長い間強いられるということで、そういうイデオロギーに対しては、ちゃんと対抗したいなと。

小泉明郎・松井周「フィクションの反転力」p.7、雑誌『サンプル』vol.1、サンプル)

これは雑誌『サンプル』第一号に掲載されている、「フィクションの反転力」と題された松井周・小泉明郎の対談における松井の言葉である。彼は会場で配布されたパンフレットの中ではこの「物語」を「運命」と並べ、「誰かが勝手に作って、他人に貼付けているものなんじゃないか」と述べている。『オイディプス王』の悲劇的な「運命」「物語」は松井の目には、宿命的な、絶対的なものではなく、ただ押し付けられ無理矢理に着せられている、本来ならば脱ぐことのできるはずのものとして映るのだ。

 貼り付けられたものでありながら絶対視されてしまう「運命」「物語」を、着脱可能な「(仮)」の「物語」として相対化していく。そこに、タイトルにおける〈旅〉から〈遠足〉への移行が重なっている。『永い遠足』は、「物語」を相対化する試みなのだ。

 次章から、その試みがどのように行われたかについて、まず形式から、次に物語内容から考えていく。

 

2,形式において――『永い遠足』における「あらすじ」と演劇の原理

 試みは、まず形式において、演じられている役(「虚構」)と舞台上に現前している肉体・物体(「現実」)の違和、という演劇の原理を利用して行われる。『永い遠足』はピーターという名のネズミの役を与えられた男が「あらすじ」を語るところから始められるのだが、そこで語られるのは、まず『オイディプス王』の「あらすじ」であり、次に、荷台にあたる場所の左右に家庭の居間を模してテーブルや椅子の載せられた板を取り付け、舞台上を移動することで舞台転換装置となる軽トラックそのものの(どこが製造し、どのようにしてサンプルの手に渡ったかといった)「あらすじ」、ピーターを演じる奥田洋平の個人的な(「生まれて、三十七年…」といった)「あらすじ」である。その次にようやく、『永い遠足』の物語内容のこれまでの「あらすじ」、登場人物それぞれの紹介がされ、ピーター役の男は自身を「実験用のネズミのうちの一匹」と紹介し、物語は始まる。

 『永い遠足』の物語内容が演じられ始める前に語られた、軽トラックとピーター役の男の「あらすじ」は、『永い遠足』の物語内容という「虚構」に対して、「現実」に属するものである。これらを舞台上で語ってしまうことは、「虚構」が「虚構」であることを隠蔽しより「リアル」に見せようとするという演劇の歴史的な努力を放棄しているようにも見えるが、しかし実際には物語が始まれば奥田洋平はピーターと呼ばれるネズミに、それぞれの役者たちはそれぞれの役として認識されてしまうし、軽トラックは家庭の居間になり、青いビニールシートは海になり、ダンボールは押入れになる。かつて体育館であってその様相を残しているにしすがも創造舎という劇場は、『永い遠足』が始まれば体育館でも劇場でもなく、居間や海辺といった場所になる。実在の肉体を持つ人間に、舞台上に配置されている日常的な道具に、舞台に、違う意味(「役割」)を与えることが演劇では許されている。それがすんなりと受け入れられるのだ。

 このことを言い換えれば、演劇においては「物語」の脱ぎ着が許されている・可能である、となるだろう。『永い遠足』冒頭の「あらすじ」のくだりは、「現実」に「虚構」の「物語」を着せる瞬間を見せることで、この可能性を露出するものとしてあった。演劇の原理としての着脱可能性、それは「物語」を絶対的なものとして表現してきた演劇においては隠蔽されてきたものだ。それをあえて曝け出すことで、脱着可能な相対的なものとしての「物語」を、『永い遠足』は提示した。

 

3,物語内容において――着脱可能な「物語」、しかし越えられない境界線

 演劇という芸術形式は、原理的に「物語」の着脱可能性を孕む。このことを『永い遠足』は露わにしている。その『永い遠足』の物語内容において描かれているのも、着たり脱いだりすることのできる相対化された「物語」に見える。

 『永い遠足』の物語内容と登場人物たちを、単純化して紹介しよう。実験用ネズミの世話をする職についているノブオは、実験で生み出された人語を話すネズミ・ピーター(後に「ネズミ人間」であると説明される)と暮らしている。ノブオには、物語内容の中での現在では既に亡くなっており、回想のような、幽霊のような形で登場する母・チヨコがいて、さらに彼女との近親相姦によって生まれた娘・アイカがいるのだが、しかし彼は自身の近親相姦も娘の存在も知らない(忘れている)。アイカはタケフミとキリコという夫婦のもとで成長したが、家族への反発から、家を出る。タケフミとキリコは花屋を営む桃太郎と共にアイカを探す旅に出、その旅の中で、桃太郎の提案からアイカを取り戻すためにタケフミは母性を手に入れようと女装(女体化?)し、キリコは笑いを取りもどし、犬のように四足で歩くようにもなる。一方、アイカの友人でもあり機械から機械へと渡り歩くデジタル生命・マネキンに、ノブオに娘がいることを知らされたピーターは、マネキンによって禁じられたにも関わらずノブオにそれを伝える。ノブオは買春の形で娘と接近し、「プレイ」として父娘の関係を作り始めるが、桃太郎、タケフミとキリコたちに発見される。ノブオはアイカ(この時、彼女は既に「アイカ」という名をマネキンに譲っており、「もうアイカじゃない」と語るのだが)を素直に手放そうとし、しかし持ち歩いていた母の遺骨で目を突き刺し、失明する。最後のシーンでは、失明したノブオの手をアイカが引き、二人で歩いている。奥の扉から舞台に表れた筒状の、半透明の白いビニールの膜の向こう側にはピーターとマネキンがいる。ノブオはピーターから最先端医療を用いて作られた目玉をもらうが、ノブオはそれをどうすることもできない。そのままノブオとアイカは去っていき、物語は終わる。

 タケフミとキリコは、それまで家族という「物語」の中で担っていた役割を脱ぎ捨てて、別人のようになる。桃太郎を名乗る花屋の男は、「じゃあ、俺のどのへんが桃太郎だ?…どのへんが桃太郎なんだよ!」「桃太郎なんだよ…俺を見て、お前らがそう思えばそうなるんだよ」と語る。アイカは家を出て、さらに名を捨てることで、家族の「物語」、アイカの「物語」を脱ぐ(「アイカやめる。私、脱ぐ、アイカ。」とアイカは語る)。父親像や妻像、家族、名前さえも、相対化可能・着脱可能な「物語」なのだ。

 しかし、タケフミ、キリコ、桃太郎といった、今までの「物語」を脱ぎ、新たな「物語」を着た彼らは、ついにはアイカを取り戻せないし、(役者の肉体的にも)男性でありながら女装したタケフミや四足歩行をし「わん」と叫ぶキリコの姿は滑稽で、ノブオは『オイディプス王』から継承された「物語」に抗えずに目を潰し、最先端医療をもってしても、その視力は回復されない。実験から生まれ違う国へと旅立つピーターや、機械から機械へと渡り歩くデジタル生命のマネキンと比べ、物語の中の人間たちは、どうも手放しで肯定される状況にはないように見えるのも、事実である。

 また、脱ぐことのできなかった「物語」も存在する。最も大きなもので、それはオイディプス王に重ねられ近親相姦を犯したことを知ったノブオによる、「運命」とも呼べてしまうような目潰しである。

 境界線、といった言葉に連なる表現が『永い遠足』には度々表れる。『永い遠足』には海辺に張られた、アイカの越えられなかったバリケードが登場するが、それをマネキンが「境界線」と呼ぶ(マネキン自身は越えられるのだが)し、桃太郎はタケフミ・キリコに「一線を越えます」と語る。境界線を越えるということは、少なくとも桃太郎の用法においては、「物語」を脱ぐ・別の「物語」を着ることと同じ意味を持つのだろう。「一線を越えます」の言葉どおりにタケフミ・キリコは別の「物語」を着たのだ。しかし、越えられない境界線、それを象徴するかのように、白い半透明の筒状になった膜、ピーターとマネキンという「人外」の者と暗闇を彷徨するノブオ・アイカを隔てる異様な存在感を持った膜を、舞台を奥から貫くような形で『永い遠足』は最後に出現させた。

 『永い遠足』において「物語」は、形式においても物語内容においても着脱可能なものであった。それは松井周が雑誌やパンフレットで語っていたこととも重なる。しかし、彼の言説を越えるものが、『永い遠足』には確かに描かれている。

 

4,「物語」の相対化以後も残るもの

 「great journey」から「long field trip」へ――それは、「運命」「物語」などと呼ばれ押し付けられ続けるものを、着脱可能な、演劇的なものとして相対化する移行であった。絶対的なものとして捉えられ続けてきた「物語」、〈旅〉が、着脱可能・相対的な「物語」、〈遠足〉として捉え直される。しかし、それでも越えられない境界線、最先端医療をもってしても抗えない「物語」を『永い遠足』は残した。

 ノブオとアイカの脱ぎ捨てられなかった「物語」について、考えてみたい。再びパンフレットから、松井の言葉を引く。

iPS細胞は、これまで受精卵からでなくては作れなかった万能細胞を人工的に作り出したものですが、その登場は人間のオリジンが必ずしも男と女であるとは言いきれなくなったということを意味していると思います。僕はこの話を聞いて、すごい開放感を味わったんですよね。男と女がいて、子どもがいて「家族」なんだという固定観念を、現実が裏切った。最近はブタの体内で人間の内蔵を作る実験も進んでいるそうですが、そこでも人間とブタの境界線やイメージは壊されているわけで、そういう話にはすごく快感を覚えます。

(『永い遠足』公演パンフレット「インタビュー:松井 周『物語』を乗り換える、(仮)の可能性」p.4)

「人間とブタの境界線」をも破壊する最先端医療は、『永い遠足』の中ではさらに進んで、実際に人間の目玉を作ることもできるし、「ネズミ、ブタ、サル、ヒトのクォーター」であるピーターのような存在をも生み出している。しかし、『永い遠足』の最後に現れたのは、そのような近未来的な技術をもってしてもなお越えられない境界線、「人外」の者だけがその向こう側に行ける白い膜である。桃太郎の言葉のように、境界線を越えることが「物語」を着脱することと同義であるとすれば、ノブオが越えられなかったその境界線は彼が『オイディプス王』的な自身の「物語」を脱げなかったことを象徴していると読むこともできる。

 白い膜の現れたその最後の場面には、壮大な大音量の音楽(「諦念プシガンガ」であった)と共に醸しだされる開放感があった。それは相対化された「物語」を脱ぎ着し渡り歩いていく開放感であるだろう。しかし、音楽が終わった後の最後の台詞、目玉を付け替えることのできないノブオの「俺はこれをどうしたらいいんだ?」という台詞には、ある種の絶望感、それは言い過ぎだとしても、開放感からは程遠い、心に引っかかるものが確かにあった。

 家族、名前といった着脱可能な「物語」をタイトルの〈遠足〉に結びつければ、〈永い〉は、この心に引っかかるものの原因であろう越えられない境界線、着脱できない「物語」に結びつけられる。最初に引用した『永い遠足』のメイキング記事から読み取れるように、〈永い〉は単純に「long」の意味ではなく、「永遠」から来ている言葉である。「物語」を相対化し、着脱可能な〈遠足〉として捉えてもなお、「永遠」に脱ぐことのできない「物語」、〈永い遠足〉。

 それは、人間に関して言えばだが、自己同一性といった名で呼ばれるものなのではないか、と私は考える。

 自己同一性という名の「物語」の輪郭を定めることは、現状では不可能であろう。自己同一性とは、そもそも多様な使われ方をされる概念であり、ここでは、ある者がある者であり続けるその連続性の根拠といった意味で用いるが、現代、来る近未来において、臓器移植やiPS細胞といった技術によって、自己同一性の境界はさらに侵され続ける。身体のある部品を移植されても、それがブタから来たものであっても、ある人はある人としての同一性を保つだろう。しかし仮に脳が移植可能になればどうなる? 脳以外のすべてを交換したら? いや、医療に関わらなくとも、例えばある日を境に名前が変わっても、国籍が変わっても、ある者はある者であり続けるだろう。しかし、性格ががらりと変わってしまったとき、ある者はある者であり続けていると言えるだろうか? 演劇という「虚構」においてある役者を別の登場人物として見てしまうような我々が、まして「現実」において、ある人が何をもってその人であるのかを言うことは、不可能である。例えば奥田洋平という「ある者」を、『永い遠足』を観る者はピーターとして見、奥田洋平とは見ない。しかし、彼は確かに普段は奥田洋平という名(「物語」)を着ている「ある者」であって、彼はその「ある者」であり続けている。その境界線(限界、と言い換えればわかりやすいだろうか?)は確かに存在するはずだ。演劇という芸術形式の中で「物語」を脱ぎ着するように、「物語」を相対的なものとして捉えてもなお、ある者がある者であり続ける、その自己同一性の「物語」がメタなものとして残る。

 自己同一性という脱げない「物語」、越えられない境界線。『永い遠足』において、アイカの越えられなかったバリケードの向こう側には「身動きのできない」「骨を晒した」と語られる、おそらく死体があった。その境界線は、人間とデジタル生命を分けるものであると同時に、生と死の境界線でもあるようだ。人間である限り、例えば死ぬまで越えられない境界線、ある者がある者である限り脱ぐことのできない「物語」が、「物語」の相対化の後も残る。そのことを暗喩するかのように、『オイディプス王』の「物語」に逆らえずノブオは着脱可能なはずの目玉を交換することができない。そしてタイトルにも、「journey」すなわち〈旅〉から「field trip」〈遠足〉への移行がありながら、あるいは〈グレイト〉以上に絶対的な、「永遠」を意味する〈永い〉が付されている。相対化された〈遠足〉的「物語」の中で、「永遠」のもの。〈永い遠足〉というタイトルは、それを指し示しているはずだ。

 

5,ある者がある者であり続ける、その美しさ

 強いられる脱ぎ着できない「物語」への問いは、形式においても物語内容においても「物語」を相対化する『永い遠足』という作品になり、しかしそこには「物語」の相対化の末になお残り続ける「物語」、受け入れざるを得ない「物語」が書き込まれた。その越えられない境界線を前にしたノブオの台詞に対して、絶望感、と私は述べた。しかし、この「永遠」の「物語」、〈永い遠足〉は、決してネガティブにのみ捉えるべきものではないだろう。

 そもそも、『永い遠足』の物語内容の外側から「あらすじ」を語れたのはピーターだけであり、舞台に現れぬままマイクを使って台詞を語れたのはマネキンだけであった。「人外」に対する「人間」たちは役者の肉体を離れられないし、『永い遠足』という「物語」を脱ぐことはできていない。「人間」たちは、決して『永い遠足』の外側にいられない。「人間」を人間に、『永い遠足』を〈永い遠足〉に置き換えても、同じことが言えるのではないだろうか。私たち人間には脱ぐことのできない、いや脱いでしまっては「私」でなくなってしまうような「物語」がある。「永遠」に押し付けられる・ある者であり続ける限り受け入れざるを得ない〈永い遠足〉が存在する。しかしそれは悲しくも、美しい境界線であるように私は思うのだ。アイカがアイカの名を捨てたことを認めつつ、「私にとってはアイカだ」「おかげで、ママのちょっと違った姿も見ることができて」と語るタケフミの美しさ。家族も名も捨てて、しかしノブオを導くアイカの美しさ。それは、「物語」を脱ぎ着しながらしかしある者であり続ける「私」と、ある者であり続ける「あなた」の関係の中で生じる・関係そのものの美しさに他ならない。

 

※『永い遠足』の台詞は「11月12日付けのもの」として販売されていた上演台本のものであり、実際の上演における台詞とは異なる可能性もあるが、少なくとも引用箇所については私の実際に聞いたものと意味内容に差がないと判断したため、それに拠った。

 

神川 達彦(かみかわ たつひこ)

1992年生、早稲田大学文学部三年で日本現代文学を専攻。