Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

あわいに浮かぶ「LOAD」の文字―ラビア・ムルエ『雲に乗って』

男は机の上に2、3あったDVDの束を、ひとつにして高く積み上げ、それらを上から順番に1枚1枚再生していった。再生が終わる頃にはまたケースを開けて、DVDをデッキに挿入し、再生ボタンを押す。右手が不自由らしく、これらは全て左手で行われた。彼は約1時間の上演時間のほとんどを、舞台下手の隅でこの作業に費やした。

この作品に演出家の実の弟であるイエッサ・ムルエが出演するという情報は、事前に得ていた。フェスティバル/トーキョー13の総合パンフレットには、以下の記載がある。「歴史の渦の中で生きるとは――。銃撃の後遺症で虚実の境目を失った男が記憶をたぐり寄せ、語る『半生』」。見世物小屋の口上のようだと思った。

冒頭、舞台上方に吊り下げられたスクリーンに投影された、映像の中のイエッサは、過去が全て静止画としてしか記憶されず、それらが動き出すには、事情を知っている人による語りが必要なのだ、と話す。

また、中盤において、彼は表象が表象として認識できないと言う。故に事故後は劇場に足を運ぶことがなくなった。舞台上で人が死ぬことと、現実で人が死ぬこととの区別がつかないのだそうだ。

そんな彼が医師から治療の一環として勧められたのが、ビデオを撮ることだった。100本近いビデオ作品を作り出し、そのうち20~30ほどが本作に使用されているらしい。

イエッサが手がけたビデオ作品は、確かに彼の過去の断片である。そのことは彼が静止画としてしか保持できないという過去のことを想起させる。キラキラ光る円盤は、デッキに挿入され再生ボタンを押し、回転によって生み出される信号を読み取られることで初めて映像として知覚されるものとなる。他人による助けがなければ動きださない過去は、映像として残すことで、指一本で駆動させられるものとなる。そして、その指は他人のものであってよい。

しかし、再生ボタンを押しても、すぐには映像は再生されない。DVDを再生しようと回転させたものの、そこに映像は流れずに、ただ物理的な運動だけが続く。真っ黒のスクリーンの左上部には「LOAD」の白い文字が浮かびあがる。だが、映像が再生されると、すぐに消える。その時間の長さは一定ではなく、場合によっては全く存在しない。

まるで舞台の暗転のような時間であった。舞台上には照明が灯され、演者がそこにいるにもかかわらず。この作品の大半において、時間の進行は映像が担っていた。だからこそ、映像が進まずに足踏みをしている時間がわたしには強く意識させられた。このとき観客はまだかな、などと思いながらその時間を過ごしたし、同じくそのような退屈でなすすべのない時間として、イエッサもこの時間を経験していたのでは、と想像する。

このロード時間によって、普段は淀みなく流れがあると捉えられている2つのものの間に、実は存在するひっかかりのようなものへの感度があげられた。

先の冒頭の映像は、映像の中の彼がカメラ目線となることで締めくくられるが、そのとき同時に舞台上にいる彼もまた、観客に向かって同じくまなざしを向ける。表象を理解できないというイエッサが、映像中の彼との間に同一性を見いだせないだけでなく、観客もこうして2人を見比べることで、これらが違うということを知る。2人の間に「LOAD」の文字が浮かんだ。

そして、そのような2人の視線に同時にさらされる観客もまた、そのようなあわいを経験することとなる。かつての彼が実際にはカメラのレンズの暗闇に向け投げかける視線を、その隣に立つ人のものと同じく、今自らに向けられたように思う、その感覚にもまた「LOAD」の文字を見出してしまうのだ。

ロード時間の存在が実際にはどの程度、作品において意識されていたものなのか分からない。この時間は作品が進行するにつれ、少なくなっていったように思うが、それは単に空白の時間をなかったことにする習慣がわたしに戻ってしまったからかもしれない。しかし、あのとき皆が集ってぼんやりと宙吊りの時間を経験したことは、確かである。

静止画でしか記憶ができない、数奇な運命を辿った男によって提示された時間の流れ方は、実はそれほど身に覚えのないことではないのかもしれない。『雲に乗って』は我々の過去や記憶、そしてその多く引き受けることになったメディアと、今現在の時間との間に横たわるものについて思いを巡らせる時間となった。

作品のラストシーンでは、イエッサが机を離れて自作の詩を朗読し、次に舞台上手に椅子を設置して、アコースティックギターを抱えて座る。客席を通って舞台に上がった演出家ラビア・ムルエが、弦を押さえる弟に肩を回して弦を弾き、2人は演奏しながら歌う。それまで常にスピーカーからもたらされていた声は、兄の助けをかりて今ここから発せられることで大団円を迎えた。しかし、わたしの頭の片隅で「LOAD」の文字は明滅を続ける。

 

廣澤 梓(ひろさわ あずさ)

1985年生まれ。山口県下関市出身、神奈川県横浜市在住。2008年より百貨店勤務で皿売り。2010年秋よりTwitter上で「イチゲキ」をスタート。2012年秋には「Blog Camp in F/T」に参加。2013年1月よりワンダーランド編集部に参加。@

 

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