Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

第三の悲劇について

 「インドネシアから来た劇団です」――11月9日、シアタースタジオ・インドネシア『オーバードーズ:サイコ・カタストロフィー』開演前、池袋西口公園でフライヤーを配る者たちはしきりにそのフレーズを繰り返していた。インドネシアから来た――その情報を私は、フェスティバル/トーキョーのウェブサイトから既に得ていた。「1883年のクラカタウ山の大噴火と津波災害を題材にした新作」「畏れや祈りの感情をも引き出すこの劇場空間は、人間本来の生き方、身体のあり方を再考する場ともなるはずだ」……そんな言葉たちと共に。

 池袋という都市の中に現れた巨大な竹の建造物。合掌の形で組まれ、上からはちょうど人が五人上に乗れる程の丸太が吊り下げられていて、祭壇らしき足場に向かって大きな銅鑼が吊り下げられている。少し目を逸らせば東京芸術劇場、高層ビルと消費者金融や学習塾や飲食店の看板の光がある中で、竹の壁に囲まれた空間は異様だ。そこでは、緊急車両の音や店から漏れ出る音楽や街を行く人々のざわめきに囲まれながら、動物の鳴き声や竹を叩く音といった原始的な異音が鳴り響く。

 寒空の下、パフォーマンスが始まると、現れるのは日に焼けた肌、上半身裸の原始的な恰好をした男たちと、白い服を身につけ舞台を叩いて音を鳴らす呪術師らしき男である。上半身裸の男たちは肉体の力のみで、命綱もなく竹の建造物を登っていく。

 白い服の男は銅鑼を擦ったり叩いたりすることで異音を出しつつ、何度かおそらくインドネシア語を発したが、インドネシア語をまったく解さない私には、言語であったと確信をもって言うことはできない。しかしそれはおそらく自然の脅威を前にした者の祈りであった。上半身裸の男たちは竹の建造物を登ったり、ぶら下がってみたり、上から下げられた丸太を舟に見たてて漕いでみたり、それを回転させたり、杭を突き刺したり、竹を打ち付け音を鳴らしたりした。巨大な丸太に翻弄されているように見える時もあり、それを操っているように見える時もあり、災害を前にした人間の小ささとそれを乗り越える人間の強さを見たように思った。その間、白い服の男は民の苦しみを引き受けたかのごとく身体をくねらせていた。どれもがいかにも儀式的で、隠喩的で、意味ありげな動きであった。そして、パフォーマンスの終わりに上裸の男たちによって観客たちに配られた匂いの強い粉。あの粉を私は、理解できなかった。

 理解できなかった――まがりなりにも批評を書こうという者の言葉としてあまりに情けないが、しかし私は、理解できなかった、そのことからこの芝居を考えてみたい。そこから見えてくることはこのパフォーマンスの小さな一面に過ぎぬのかもしれないが、しかし私には無視できない一面である。

 インドネシアから来たシアタースタジオ・インドネシア、彼らが東京の中心でやっていたことは、少なくとも私の持つインドネシアのイメージ――常夏、ジャングルと青い海と砂浜、自然の中で暮らし続ける多様な民族――をあまりにも裏切らなかった。そのことに不気味さを感じた。私にとって、いや、インドネシア語話者や関わりの深い人間を除けば多くの観客にとって、インドネシアとは「他者」であるはずだ。それなのになぜ、「インドネシアっぽい」などと思ってしまうのか? 彼ら(どこまでを「彼ら」と呼んでいいのかわからないが)がインドネシアを強調する背景には、あるいは政治的経済的な意図があるのかもしれない(協賛企業にインドネシアの航空会社があり、開演前にインドネシア観光の広告を配っていた)。しかし、彼らのパフォーマンスには「インドネシア」だけでなく、過剰なまでに解釈のためのコードが付与されている。「1883年のクラカタウ山の大噴火と津波災害を題材に」「畏れや祈り」「人間本来の生き方、身体のあり方」……そうした言葉によって、パフォーマンスの多くの部分は理解できてしまうだろう。CINRA.NET編集部の記事によれば、メンバーの一人セノ・ジョコ・スヨノは以下のように語ったという。

ナンダンは大きな災害に遭遇したときに、人々の身体が災害に対してどのように向き合い、乗り越えていけるのかを作品としました。竹で組まれた三角形の舞台装置は火山でもあり、下に据えられたプールは海のメタファーでもあります。海と山の間を素早く動き回るアクターは、どのようにしてカオス的な状況を乗り越えられるのかを表現しています。ナンダンは、私たちの公演を通じて日本の観客たちに、『かつて経験した災害を追体験してほしい』『自分たちを見つめなおすきっかけにしてほしい』と語っていました

 引用元の記事のタイトルにある「2つの悲劇」とは、一つは題材にされていると語られている「1883年のクラカタウ山の大噴火と津波災害」、あるいはそれに容易く接続されてしまう「東日本大震災」の両方であり、もう一つはシアタースタジオ・インドネシアの演出、ナンダン・アラデアの急逝であろう。二つの悲劇――それらとはレベルが異なるが、あえてそこに「第三の悲劇」を付け加えたい。それは、事前に書かれた言葉たちによって、パフォーマンスの場における意味創造の相互性が狭められてしまっていることだ。彼らは「他者」として東京に現れ、理解し難い故に刺激的な「異物」として蠢き得たのに、親しみのある理解しやすいイメージを過剰に纏うことによって、決して裏切らない「隣人」になってしまった。そうしたイメージは彼らにとって「他者」であるだろう東京の観客によりよく理解してもらうための解読コードであったのかもしれないが、しかしそれによってこの芝居を誰もが同じように解釈できてしまうとしたら、仮にそこに理想の状態を想定しているとしたら。もし、「海と山の間を素早く動き回るアクターは、どのようにしてカオス的な状況を乗り越えられるのかを表現している」「かつて経験した災害を追体験でき、自分たちを見つめなおすきっかけとなる」といった解釈しか許されないのだとすれば――あまりにもこのパフォーマンスを貶めてしまうことだが、しかしそれが望まれてしまった側面があったことは確かだろう。そこには一方的な伝えたいこと、理想的な予測された理解だけがあって、相互に、新たに作り上げられるものはない。私もそれに従ってこのパフォーマンスを観た。震災後の日本で、かつての災害を題材にしたパフォーマンスを行う意味、都市の中心で、インドネシアの民族的な動きと音、匂いが持つ効果――それらは予定された批評に過ぎない。もちろんそのように観た故に起こる感動もあった。脅威を前に、肉体と祈りの力をもって生き延びる人間の力強さ。都市の中心で繰り広げられる、原始的な生のいとなみの美しさ。それらはおそらく彼らのパフォーマンスが描き出したものの中心的なものであった。それらを見つめ続けることで、予め与えられた意味を越えて新たに創造される意味もあっただろう。いや、それこそが、より高次に望まれた批評であるようにも思う。

 しかし、私は彼らが無言のまま我々に配る匂いの強い粉、そのわけのわからなさを問いたい。その答えはフライヤーにもウェブサイトにもない。そしてそこにこそ、私が「第三の悲劇」と呼ぶものを乗り越える手立てがあるように思う。彼らの差し出したものを、イメージで理解してしまわずに、理解できなかったところから考え始めること。それは「他者」とのコミュニケーションの原理であり、また「カオス的状況」を前にした人間たちに、最も必要となる態度の一つではないだろうか。手渡しで、無言のまま、しかし確かな意志をもって差し出されたあの粉は、親愛の情を込めた贈り物だったのか、連帯を示すものだったのだろうか、占いや魔除けといった呪術的な何かか、はたまたドラッグのメタファー? その強烈な匂いはある者には好ましく、ある者には不快だっただろう。ポジティブな意味が込められているのか、ネガティブな意味が込められているのか、それさえわからない。しかし何にせよ、その意味のわからなさと手元に残った粉の匂いが、既に書かれた言葉を越えて彼らを理解したいという気持ちを刺激し、また彼らが「他者」であることを私に思い出させたことを記しておく。

 池袋西口公園に出現した「異物」、彼らの竹の建造物はもう取り崩されてしまった。「第三の悲劇」――災害や人の死と比すれば小さな「悲劇」だろうが――、狭められた相互性を乗り越える努力を行えるのは、もう芝居を見終えてしまった観客だけだ。それは、理解できなかったというそのことから、改めて彼らを「他者」として発見し直すことから始められる。

 

追記:

 落雅季子氏の『オーバードーズ』評を参照し、「インドネシアのうつくしい民族衣装とは程遠い」、「iPad」や一人だけいた「ぽっちゃり体型の男性」といった、私の言う「インドネシアのイメージ」や「人間の力強さ」といったワードから逸脱するものが確かに散りばめられていたことが思い出された。私は「狭められた相互性」を主にパフォーマンスの側の問題として語ったが、与えられていた言葉、イメージを逸脱する細部を無視していたのは私の方だったのかもしれない。

 

神川 達彦(かみかわ たつひこ)

1992年生、早稲田大学文学部三年で日本現代文学を専攻。