Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

恐ろしいこと満載の人生 –北千住の恋人–

 『四家の怪談』は、北千住界隈をめぐるツアーパフォーマンス形式の演劇であると聞いていた。スタート地点となる集合場所のホールに行くと、友人のH嬢に会った。F/Tの会期中は彼女によく会う。

 

 作・演出の中野成樹は、海外作品の大胆な翻案「誤意訳」で知られる。彼と、ドラマトゥルクとして多くの作品を手がける長島確、建築家の佐藤慎也の三人によって、“四谷怪談”と呼ばれる物語はさまざまなバリエーションがあり、一番古いのは『雑談集』という本であること、一番有名なのはそれから100年後に鶴屋南北が書いた『東海道四谷怪談』であることが語られる。そして今回、それらをもとにした一番新しい民話『四家の怪談』が、中野によって創作された経緯の説明がなされる。ちなみに今回の作品にあたって「つくりかたファンク・バンド」という、写真や音楽、イラストなどの専門家を集めたチームが結成されており、中野、長島、佐藤はいずれもそのメンバーである。

 

 私は受付で、『四家の怪談』の小説を受け取り、開演時間までの間に読了した。岩という娘と伊右衛門という男、その妻の花を取りまく人々について、荒川近くの五反野、牛田という街を中心に描かれている物語であった。二人の出会いは北千住前の居酒屋で、岩はアイドルグループに入りたいと思っている普通の19歳の女の子だった。手元にはあわせて配られた、小説にゆかりのある場所や、中野、長島のおすすめの場所が書き込まれた地図がある。集まった人々は、その地図を携えて、小説の舞台になった街に出ることになる。

 

 街に出て、最初はひとりで歩こうかと思ったが、何となくH嬢と連れ立って行くことになった。中野版『四家の怪談』の小説には、かつしかけいたによるひとこままんがが随所に添えられている。そのまんがの台詞のひとつに、女性ふたりが北千住らしき駅の周辺を歩きながら「この辺てさ、ありなのかな」「えっ、ありじゃないの?なしなの?」という会話を交わしているものがあって、それはおそらく居住する対象としての北千住についての意見を交換しあっているのだと思うが、私はふとH嬢に「北千住に暮らす男は恋人としてあり?なし?」と、尋ねてみた。

 

 恋人の住所は、恋愛において重要である。自宅に通うのが面倒でないほうがいいし、デートをするのにもどこで待合せをするかが問題になる。何より恋人の住む街には親しみもわくし、何気ない風景も特別に見えるものだ。私が「ちなみに私はなしかな。なじみのない街だし」と先に言うと彼女は「私、実は綾瀬で生まれたから逆にありだな」と言った。逆にって何だろう、と思った。

 

 「『四谷雑談集』の方は行った?」と聞かれたので「昨日行ったよ」と答えた。『四谷雑談集』は、同じく中野・長島のコンビによるF/T13の演目で、こちらは先述の、四谷怪談バリエーションの中でもっとも古い『雑談集』ゆかりの地である新宿区四ッ谷駅にある田宮神社周辺をめぐるツアーであった。四ッ谷は坂道の起伏が激しい町並みで、街の遠景は坂の上から臨む形だったのだが、この北千住の街には坂らしい坂が無かった。

 

 しばらく北千住駅周辺を歩いてから、次の目的地である日ノ出町団地を目指した。団地のそばで、「恨み晴らさずお空を晴らせ」というキャッチコピーとともに、『あ・お・ぞ・らDestiny』と、大きく書かれ、若い女性が中央に立っている写真が貼られた黄色い広告車を見つけた。車のスピーカーからは、少し調子はずれだが、軽快なポップスが流れている。そういえばこの車は、『四谷雑談集』のときも町中を走っていた、ということに気づき、岩がアイドルになりたかった話や、つくりかたファンク・バンドの中には音楽家の大谷能生がいたことなどが一気に頭の中で像を結んで、フィクションと現実の風景が衝突したときのざらついた感触を味わった。

 

 続いて地図に導かれ、生まれて初めて荒川の堤防に上った私は、眼前に広がる景色に思わず「金八先生の世界だ」とつぶやいた。小説の中で、岩と伊右衛門が別れ話をしたベンチが見えた。坂の無い町並みは、どこまでも見渡すことができた。

 

 川の表情は、流れる街によって異なる。江東区の隅田川、横浜の大岡川、多摩の玉川上水。かつて自分が見た様々な川とこの荒川を重ね合わせて比べながら、これが岩たちの日常にある川なのか、と思い、この河原で別れ話をしたら、大きな川と対岸の高速道路に何もかも流せる気持ちがするんだろうか、と考えたりもした。

 

 地図に従い、東武牛田駅を探す。駅は見つけにくい場所にあり、スマートフォンからGoogleMapを駆使して何とかたどり着いた。京成関屋と東武牛田の改札口は、向かい合った目と鼻の先にあって、平坦なこの土地のことだから、ここにしか駅が作れなかったなどということはないはずで、当時の京成電鉄東武鉄道の妙なパワーバランスが窺い知れるようだ。ここから三つ先の五反野駅に向かうのであるが、電車はなかなかやってこず、駅までの迷子のためにすっかり疲れて退屈していたので「そういえば京成線のマスコットのパンダって超かわいくないからぜひ調べてみて」とH嬢に勧めた。彼女は素直に画像検索をおこない、呻き声を上げていた。

 

 予定より少し遅れて五反野につき、駅前から広がる商店街を眺めた。駅の目の前には中華料理店があり、これも本の挿絵のひとこままんがにあるとおりの佇まいだった。

 

 未踏の地であった五反野に降り立った私は、驚いていた。暮らしやすそうなのだ。何とも言えず。素朴な舗装の道路は幅もほどよく、平らでどこまでもまっすぐである。クリーニング屋、八百屋、ドラッグストア、小さな食堂が並ぶ町並みは、ほんのり温かさが漂う。私は「北千住に暮らす恋人はありか、なしか?」という、ツアーの初めに己の立てた問いが跳ね返ってくるのを感じていた。

 

 「ああ、こんな暮らしやすいところで誰かといたら、情がわいちゃって仕方ないわ」
 思わず私がつぶやくと、H嬢が何を思ったかは分からないが「……本当だね」とぼそりと言って、急に頭を抱え出した。私も、自分で言ったことの恐ろしさが後から染みてきて、手を口にあてた。岩と伊右衛門の、かりそめでもいとしい生活が、商店街の其処彼処に立ちのぼるのが見えるようだった。この街に暮らす女のもとに帰る伊右衛門の情が流れ込んでくるのを感じて、身体を震わせ、「なんと言うホラーだろう!」と言い合って、二人で身悶えした。

 

 それは『四谷怪談』が、伝説や作り話の薄皮をやぶり、われわれの眼前に出現した瞬間であった。五反野で暮らす女のもとに通う男について想像したときの、生々しい感覚。古今東西の怪談話がこの身に迫りくる何かの恐ろしさを語るものならば、肌になじみ、徐々に生活と化してゆく恋愛の過程が怪談でなくて何だと言うのか。

 

 岩がかわいそうだった。伊右衛門もかわいそうだと思った。好きになった人に既に相手がいたことも、相手がいるのに好きな人ができてしまったことも、秘密を言い出せずにこじれる思いとか、バイトの女の子に手を付けまくる上司だってよくある話だ。珍しいことじゃない。多くの人は、そうした「痴情のもつれ」をやり過ごして生きている。そこから道を踏み外してしまった岩は、寂しい、うらめしい、という嫉妬にいっそ狂いたかった様々な人間の願望が重ねられた姿なのかもしれない。

 

 岩はたぶん、特別傷つきやすかったのだ。そのために、彼女は消えてしまった。人々が今日も胸の奥に劣情を隠し、平穏な生活を送れるのは、岩が犠牲となった「物語」のおかげではないか。物語を読み、岩や伊右衛門に寄り添う気持ちを持つことで、人々は自らの心を慰めてきた。だから岩の物語は、四ッ谷と雑司ヶ谷という異なった舞台で何百年も語り継がれてきた。物語を得た人々は、傷つかない心で生き抜くのではなく、傷つくことを受け入れる強さを持つ。それが中野の小説の最後で語られる“「呪い」から「祝い」”への反転の、脚力というべきものだ。そして新しい物語が、今回「よつや」という音をたよりに、北千住の地に「誤意訳」され、生まれた。

 

 地図上に示された場所をすっかり回り終え、私とH嬢は小説にも登場する中華料理屋に入って、レバニラ定食とキムチタンメンを頼んだ。運ばれてきた料理はずいぶん量が多かったが、いくら泣いても癒えない傷がこの世にないように、いくら食べてもなくならないと思っていたレバニラも、少しずつ咀嚼して飲み込んでいくうちに空になった。箸を置いて「ごちそうさま」と手を合わせたとき、レバニラを二人で食べることがかなわなかった岩と伊右衛門のことを思い出して、これも供養になりますように、と祈った。

 

 

 

落 雅季子(おち まきこ)

1983年生まれ、東京育ち。会社員。主な活動にワークショップ有志のレビュー雑誌”SHINPEN”発行、Blog Camp in F/T 2012参加など。藤原ちから氏のパーソナルメディアBricolaQスタッフ。@ 

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