Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

Qは「形」を問う――Q『いのちのちQⅡ』

 

 Q『いのちのちQⅡ』は〈O〉と〈Q〉という「形」に貫かれていた。

ニンゲンの世の中の「形」に飼い馴らされきれない、そこからはみ出している、無理している存在が気になっている。(Q公式ウェブサイト

 この紹介を書いたのが誰かはわからないが、しかしここで言われている「ニンゲンの世の中の『形』」とは、『いのちのちQⅡ』において、回転、球、円環といった円いものによって表現されている。これを図示して〈O〉と呼ぼう。そして、そこから「はみ出している、無理している存在」も、やはり『いのちのちQⅡ』には登場する。「形」が〈O〉であるなら、そこからはみ出すものは、〈Q〉によって図示することができるだろう。劇団Qは、『いのちのちQⅡ』において、〈O〉と〈Q〉を描き出すことで、「ニンゲンの世の中の『形』」すなわち〈O〉を、鋭く問うている。

 本作においてヒロインのように振る舞うのは雌の犬、ジョセフィーヌ15世だ。人間の役者が演じていて、人間の言葉を話し、また4足歩行をするようなこともないが、犬という設定である。犬としては他に、やはり血統書付きでジョセフィーヌのフィアンセである雄犬のナイスと、雌犬のおぐり、そして雑種犬で外で飼われていた「犬」(後に「のりのみや」という名のあったことが明らかにされる。雑種犬に天皇家の名、という皮肉)も登場する。主にジョセフィーヌの家出から帰宅、そして妊娠までが描かれるが、それに並行して他の犬たちや飼い主である「娘」、回転寿司屋を営む女・みる子とそこでアルバイトをするリカ・スケの物語も描かれる。

 これらの物語の中で、頻繁に現れるモチーフに、まず〈O〉、すなわち回転、球、円環があった。これから〈O〉が本作のどこで、どのように意味づけされて現れていたか、見ていこう。

 まず回転から見ていく。開場した時から回り続けている回転寿司のベルトコンベアがもっとも目立つ回転であろう。他に、リカによって執拗に続けられるバレエのターンを思わせる動きや、物語終盤の、やはり執拗に続けられる木を中心点にしたジョセフィーヌとリカの追いかけっことして回転が現れる。自転車で客席をぐるりと回って舞台に戻ってくるみる子の動きも回転だ。みる子が飼っていた亀の水槽をかき回すのも、回転である。みる子の夢や、ナイスの夢の中で現れた自分の肉を食すという行為も、「犬」の自分の糞を食べるという行為も、円環を構成しており、回転に数えることができるだろう。

 これら回転するもののモチーフは、舞台中央、犬たちと「娘」の住む2階建ての家に置かれた回転する地球儀によって、「球」に接続される。ジョセフィーヌによって踏みつけられる場面もあったが、この地球儀が物語に大きく作用することはない。そのことが逆説的に、この地球儀の象徴性を強めるだろう。地球儀はもちろん我々「ニンゲン」の暮らすこの地球を模したものであり、その形は「ニンゲンの世の中の『形』」そのものだ。

 「球」は、おぐりとジョセフィーヌの妊娠の表現(服の下にボールを入れている)や、ナイスによって執拗に繰り返されるリフティングで用いられるボールとして現れる。執拗に繰り返される――〈O〉は、ナイスのリフティングやリカのターンなどの執拗な反復、役者にとっても、観客にとっても苦しい反復に接続される。

 『いのちのちQⅡ』の冒頭、ジョセフィーヌが登場し、その血筋を語る場面は、役者の動きと台詞の反復によって構成されている。「ジョセフィーヌ14世は、チャンピオン犬で」「ジョセフィーヌ13世は、チャンピオン犬で」といったように同じ動作で、数字だけ変えて反復される一つ一つに差異はほとんどなく、1世まで続けられる。それは、観客に飽きられてしまうすれすれのところ(実際、飽きた者もいたかもしれないし、私も飽きかけた)を行く反復である。また、その後〈O〉と共に現れた反復であるナイスのリフティング、リカのターン、リカとジョセフィーヌの追いかけっこもまた、同じ動作の執拗な反復として捉えられる。それらは、反復して観客に印象付ける必要のあるものではないように見える。しかも反復は冗長に見え、先に述べたように、飽きてしまうほどだ。そのような意味で反復は観客にとって、苦しい。

 そしてこの反復は、観客にとってだけでなく、役者にとっても苦しい負荷である。ターンやリフティングや追いかけっこがこの劇を観ていない者にも想像しやすいだろうが、それらを執拗に繰り返すことは肉体的に厳しいはずだ。しかし、例えば劇団マームとジプシーの作品の中で、一般に論じられるように、動作の反復による身体への負荷によって役者の苦しむ様子が観客に感情的に働きかけるのに対して、『いのちのちQⅡ』における負荷の「苦しさ」を役者はほとんど表に出さず、それ故に感情的な効果が生じることもない。

 そしてまた、おぐりとジョセフィーヌの妊娠のように、戯曲上の物語においても苦しいものを、〈O〉は表現する。二匹の雌犬は、妊娠したことによって(ボールを腹の部分に入れたことによって)「もうすぐ死ぬ」のだ。これまで見てきたことから、〈O〉の一つの特質が見えてくるだろう。〈O〉は、苦しみなのである。二匹は、妊娠する前まではそれを恐れ、あるいは忌避していた。しかし妊娠してしまってからは、かなり淡白にその現実を受け入れているように見える。このことと、先の段落で述べた役者が苦しさを表に出さないところから、〈O〉のもう一つの特質、受忍を強いること、が見えてくるだろう。〈O〉は、受け入れざるを得ないものなのだ。

 ジョセフィーヌの妊娠を忌避する描写からも、〈O〉の特質が読み取れる。ジョセフィーヌはフィアンセであるナイスに飼い主に隠れてビーフジャーキーを与えることで、彼を太らせ、自身との生殖を遠ざける、すなわち、〈O〉を遠ざける。彼女は「革命児」としての自己を自覚し、彼女が深い思い入れを持つアシカ科の哺乳類オタリアと性交するために家を出るが、しかし叶わず、家に戻ってナイスの子を身ごもることになる。その帰宅の直前に、リカとの追いかけっこが置かれている。リカに追いかけられ、〈O〉の動きを強制される中で、ジョセフィーヌは「ビーフジャーキーが食べたい」と叫び、家に逃げ戻っていくのである。妊娠後、太ったナイスについて、オタリアと似ているし構わない、と語るジョセフィーヌは、〈O〉を受け入れてしまっていると言えるだろう。ビーフジャーキーはナイスの好物であったが、彼は、自分が牛になって、自身の肉を食べる、という夢を見ている。ビーフジャーキーを食べるという行為は、幸せなように見えて(ナイスは幸せそうにビーフジャーキーを食べる)、自分の肉を食すという意味で自傷めいた、苦しいものだ。ジョセフィーヌはそれを自分では食べずにナイスに与えて生殖を先延ばしにしていたのだが、それを食すことは、〈O〉に回収されることを意味する。〈O〉は、そこから逸脱するものを回収する力を持つのである。もともと板前になるという夢を持っていたみる子が、女であるために夢を諦めざるを得ず回転寿司屋を営むようになった、というのも〈O〉への回収であったのだろう。彼女は、家出の中で店を訪れオタリアと交尾するのだと語るジョセフィーヌに「若いね」と呟く。

 本作に現れた〈O〉とその意味付けは以上のとおりだ。〈O〉は苦しく、逃げ出すものを回収する力を持ち、さらにビーフジャーキーのように、美味しくもありながら自分の身を蝕むものであり、また受け入れなければならないものである。

 そして〈O〉は、地球儀によって「ニンゲンの世の中の「形」」に接続されている。〈O〉は、世間、常識、日常、「日本」、そういった言葉で呼ばれる「ニンゲンの世の中の『形』」の暗喩なのだ。「ニンゲンの世の中の『形』」は、円環的な反復を基礎にして成り立っている。例えば24時間で0に戻る時計、暦と、それに基づく学校や職場での反復。子を産み、子がまた子を産むといった再生産(本作の中で皮肉られた万世一系の「象徴」は再生産の象徴である)。それらはニンゲンの社会を維持するものに他ならない。そして〈O〉は、逸脱も逆回転も許さない。それを苦しいと感じつつ受忍している者も、ナイスのようにそうは感じないまま身を蝕まれている者もいるだろうが。

 そのような「形」への抵抗として、そこから「無理し」つつ「はみ出し」ている存在、〈Q〉としてのジョセフィーヌが、「犬」と「娘」が、本作に描かれていた。

 「犬」が、自身の首と庭の木(回転の中心点としても用いられる木である)を繋ぐゴム紐を引っ張り、ゴムの反発でまた木に引き寄せられる、という動きを繰り返す場面がある。その反復は例外的に苦しげな様子で行われるのだが、その逃れようという動き、そして雑種という出自は、〈Q〉に他ならない。彼は脱走に成功するが、死に、ジョセフィーヌたちの物語の時点ではもういないことになっていて、物語にも主に飼い主の「娘」の回想として登場している。

 「犬」は死ぬことになった。しかし、彼を「娘」が思い出すことは、〈O〉から外れることである。先に述べたように、〈O〉は逆回転を許さない。〈O〉の時間はベンヤミンの論文「歴史の概念について」から言葉を借りれば「均質で空虚な時間」であり、回想は、同論文の中で彼が述べているように、過去を現在に蘇らせ、そのような時間の観念に疑問を投げかける行為である。

 またジョセフィーヌは自身の「革命」の失敗、自身の死を悟りながら最後に、遠い未来、ジョセフィーヌの遠い子孫が、「オタリアとのこどもを産むことになったのですって」と語る。この最後の台詞は、〈O〉が閉じた円・反復でなく、螺旋の構造をしていることを示唆する。逆回転や逸脱を許さない〈O〉に逆らって未来のことを見てきたように語るその言葉は、ジョセフィーヌの夢想に過ぎないかもしれない。しかし、雑種の「犬」やジョセフィーヌのように、〈Q〉として生きることは許されず、〈O〉を変革するに至らず回収されてしまうことを考えると、円のように見えながらずらされている螺旋は、「ニンゲンの世の中の『形』」に抵抗するために、苦しむ者たちが取り得る唯一の形だろう。雑種の「犬」が脱走後回転寿司屋のベルトコンベアを破壊したように、〈Q〉としての動きが、〈O〉にわずかでも衝撃を与え、それを螺旋形にずらしていく、反復の中の差異を大きくしていく。本作はその小さな動きの大いなる可能性を、種の進化のごときスケールの可能性を示している。

 『いのちのちQⅡ』は、犬たちやみる子、リカとスケなど、多くの登場人物たちの様々な物語を含んでいたが、それらは〈O〉や〈Q〉といった「形」によって統合されていた。紹介文にあるように、劇団Qは、「形」とそこから「はみ出す」ものを問題にしていたのだ。そして、その「ニンゲンの世の中の『形』」に対する問いの鋭さは、容易に「question」の意味を想起させるその劇団名にふさわしいものであった。

 

引用・参考文献

ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」浅井健二郎訳『ベンヤミン・コレクション Ⅰ』ちくま文庫, 1995.

 

神川 達彦(かみかわ たつひこ)

1992年生、早稲田大学文学部三年で日本現代文学を専攻。