Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

あたらしい星座をなぞる指先:PortB『東京ヘテロトピア』

 官能をはたらかせて演劇を観た経験が、実はあまりない。悪い癖だとは思いながら、提示されるそれの表象するもの、意味を示す記号、言葉をつい追いかけてしまい勝ちになる。記号に変換できないもの、たとえば気配や嗅覚、あるいは味覚のほうにこそ、じつはひとの気分や心持ちを変えさせる力がよほどあるにもかかわらずだ。

 『東京ヘテロトピア』はスタート地点で受けとったガイドブックを頼りに、東京各所に指定されたスポットを観客がめぐる公演である。演出された役者は登場しない。スポットそれぞれに FMトランスミッターが設置されて、観客はスポット毎に異なるテクストが異なる人物によって朗読されるのを、同じくスタート地点で渡される携帯ラジオ機で聴取する。スポットは民族料理店や劇場、学生寮などで、ガイドブックの表現に従えば「東京の中の“アジア”」である。アクセスが困難なスポットはあまりない。曜日や時間帯の制限によって条件が厳しい場所もあるが全体をみればむしろ、一個所や二個所、訪れたことがあるような観客も少なくないかもしれない。

 それぞれのスポットがどのような物語を帯びているのかは、ガイドブックであらかじめある程度説明されている。たとえば周恩来が通ったという中華料理店や、アジア関係書物を百万冊集めた私設図書館、日曜日毎に信者の集う教会。だから観客は事前にそれらの情報を知っているだろうし、それらを踏まえてラジオから流れる朗読=その場所に関わるもうひとつの物語を聴くだろう(仮に観客がそれを事前に知らなかったとしても、ラジオから語られるのがその場所そのものの物語ではなく、その場所に交差するよう書かれた物語だということはわかるはずだ)。

 なかでも、やはり、民族料理店に言及しなければならない。例えばカンボジア料理店「アンコール・ワット」では、おすすめのセットで出てくる料理がことごとく美味しい。これにはたいへん満足した。けれどそれは、日本人が美味しく食べられる様にカンボジア本来の味付けから変えてあるからなのだ(このことはテクストでも語られる)。またネパール料理店「モモ」ではネパール人客たちが、店が豊富に取り揃えたネパールビールではなく、アサヒの大瓶をテーブルに置いて談笑している。日本のビールのほうが安価に飲めるから、手が出やすいのだ。異郷=「東京の中のアジア」のつもりで訪れた店が、けれど、東京と接して転訛した「東京の中の“アジア”」だったことに気づかされる。

 東京は過剰な都市である。情報としても質量としても多くのものが集まりすぎていて、ひとりの人間がそのすべてを把握することはできないし、過去の痕跡はすぐに新しいものに埋もれてしまう。だから東京に暮らす私たちが見ているのはつねに、いわば(自分にとっての)東京の射影=自分が把握できるところまでを選んで整形するフィルタを通したそれである。『東京ヘテロトピア』ではおそらく、おおよその観客の日常の射影から漏れてしまう“アジア”が選ばれている。だから観客は同じ東京の、けれど日常とは異なるレイヤに存在する異郷を体験してくることができる。

 しかし観賞を進めるうちに明らかになるのは、異郷は観客の日常から独立しているだけで、東京から独立しているのではないこと=あくまで観客と同じレイヤに存在していることだ。異郷もまた東京のうえに、地続きに存在している。

 観客と異郷の間にある距離は一見、埋めがたい無限遠=レイヤの違いであるかのように見える。けれどそこには実は定義できる距離があって、ならば、異郷は日常から歩いて訪ねられる場所にある。東京訛りの“アジア”がそのことを示唆する。アジアに東京が交雑したその場所で、交雑した食べものを観客が口にする。観客と異郷とは『東京ヘテロトピア』を、また食べるという行為を通して、すこしフェアな次元での出会いを経験することになる(なぜならそれは賞味するということでもあり、ある種のリスクを引き受けたうえで何かを体に取り入れるということでもあるからだ)。スポットは異郷と観客との距離をとらえ直す場所として演出されていたのだ。

 だから国際救援センター跡は特にすばらしかった。ベトナム難民を収容したその施設がかつてあったという、まるで人気のない大井埠頭へ品川駅からバスで揺られていく距離感がそのまま、テクストのなかで主人公が実感する元ベトナム難民との壁=距離感と重なるからだ。その距離が断絶を示すものでないことを確かめたくて、帰りは立会川駅まで歩いた。

 観客に配布されたラジオ機には「同調ランプ」がついていて、周囲のラジオ電波をつかまえると光るようになっている。観客たちが各スポットを訪ねてテクストの朗読を聴いているあいだ、あるいは『東京ヘテロトピア』を離れて一般のラジオ番組に耳を傾けるあいだ、赤く点っていたはずだ。高山明は11月20日のトークで、「星座を星座として見いだす瞬間に立ちあう」という意味のことを口にしていた。周波数の同調を示す小さなランプは、一見関わりないように見える異郷同士を、あるいは異郷と日常を、線=想像力でつないで新たな輪郭を見いだすような営みを待って輝いていたのかもしれない。

 

斉島明(さいとう あきら)

1985年生まれ。東京都三多摩出身、東京都新宿区在住。出版社勤務。PortB『完全避難マニュアル 東京版』から演劇を観はじめました。東京のことに興味があります。@

■ワンダーランド寄稿 http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/saito-akira/

■ブログ fuzzy dialogue http://d.hatena.ne.jp/fuzzkey/

■高山明氏(PortB)インタビュー:ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」02に掲載