Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

銃殺刑の上演 −地点『ファッツァー』

 本作は京都にできた劇団のアトリエ「アンダースロー」での上演となる。舞台は、古い住居のはがれた外装のようにくすんだ緑色の壁の前に人、一人通れる分ほどのスペースが水平方向に広がる。上手には不揃いなドラムセット、バスドラムの穴の上には「Fatzer」と書かれている。その前に同じくらいの細さの溝、溝の中はすべて鏡ばりだ。天井からコードのつながった豆電球がばらばらに吊るされて、たるんだ大量のコードが蔓のように役者の頭上あたりの高さに垂れ下がる。

 地点による『ファッツァー』は元々、1926年〜1930年に書けてブレヒトが書いた『ファッツァー』という戯曲の断片をハイナー・ミュラーが『エゴイスト、ヨハン・ファッツァーの没落』として戯曲化したものだ。劇場で販売されたプログラムから戯曲の概要を参照する。「第一次大戦の開始から3年目、脱走を決意した4人の兵士は、そのうちの一人の妻の住居に潜伏し、革命を待つ。4人のうちの一人であった兵士、ファッツァーは食料の調達に怠慢を計り、潜伏先の妻を誘惑し、4人の秩序を乱す。残りの3人はファッツァーの殺害を思い立つ。」ブレヒトによる執筆の動機は、第一次大戦後のワイマール共和国時代のドイツに広がった閉塞感であった。ミュラーは東西ドイツ統一後の国に蔓延した社会的は雰囲気にブレヒトのテーマを重ねあわせて90年代の初めにこの戯曲を発表した。劇を見ただけでは粗筋はほとんど分からない。むしろ粗筋と、上演の両方に相互補完されて、やっと初めて全体像がつかめる印象だ。

 音響が印象的であった。客席の両脇に設置されたスピーカーから発される空間現代による複数の音色の層を持った音(複数の楽器を同時に重ねて鳴らすことでつくられた単音)は独特だ。一発、一発が大音量で放たれるそれを、役者たちがよけるようにして喋る。彼らは、頭の後ろに手を回したり、両手を上げたりして降伏を連想させるようなポーズをしたまま、周囲を神経質そうにうかがう。その様子はまるで、銃殺刑に並ぶ脱走兵と、そこに響く銃声そのものである。

 とにかく私はこの演目を恰好いいと感じた。それは一つ一つの演出手法に感じる作り手側の迷いのなさ、揺るぎのなさに理由があると思われる。劇中で提示される一つ一つの効果、演技について、一つ残らず提示する側で意図の共有ができているように、見ていて感じられた。複雑な主題と構成を、単純な音、一枚の画の中にしっかりとこめ、言葉では一言で説明できないようなことを、視覚と聴覚を通じてならば一瞬で伝えられるように仕上げられている。構造は、余分な隙間なく、かっちりと組まれているという印象を感じさせると同時に、それだけの演目を組み立てるにはかなり贅沢に時間を使いながら本番と同じ状況下での稽古を行わなければならないのだろうとも感じた。

 パンフレットに演出の三浦氏からの印象的なコメントがある。「アンダー・スローは、あくまで稽古場として作った」。地点は固定の劇団員と演出家が自分の団体のレパートリーとしての演目をいくつも保有している。この上演方法に本番も上演できる稽古場が加われば、作り手の側にとってこれほど贅沢な環境はなかなかないだろう。地点の演目を格好よいと思わせるその恰好とは、恰好の悪いものの排除に手間ひまをかけた結果だ。これは、贅沢な制作環境の賜物である。『ファッツァー』は、演劇作品を洗練させる重要な材料が手法や個々の技術よりもむしろそれが作られる制作環境にかなりの比重があるとあらためて感じさせる作品だった。

 

参考:

「ブレヒト/ミュラーの『ファッツァー』敗北者の眼差し」市川明 、上演プログラムより

 

伊藤 元晴(いとう もとはる)

1990生まれ、京都府京都市在住。大学生。象牙の空港(http://ivoryterminal.bufsiz.jp/)主宰。

http://pac.hatenablog.jp/entry/2013/11/09/140208