Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

ツアーパフォーマンス試論

0.はじめに

中野成樹+長島確によるツアーパフォーマンス『四谷雑談集』『四家の怪談』はその巡る先々に基本的には何も用意されていないという点に他の多くのツアーパフォーマンスとの違いがある。中野+長島による明白な仕掛けとして用意されているのはツアーの大まかなコース指定とツアーに出かける前に(あるいは事後的に)読むための書籍、そしてツアーの導入としてのレクチャーでほとんど全てであると言ってよい。書籍にはそれぞれ四谷怪談の元となった「四谷雑談集」と四谷怪談の舞台を現代へと「誤意訳」した「四家の怪談」が収録されている。参加者は集合場所で30分ほどのレクチャーを受けたのち、『四谷雑談集』では各回40名ほどの参加者がガイドを伴った2つあるいは3つのグループに別れ、『四家の怪談』では各自が地図を持って三々五々、ツアーへと出発する。

ここから検討していきたいのは『四谷雑談集』『四谷の怪談』の特異性である。なぜこれら2作品のツアーの途上には何も用意されていないのか。ツアーの途上に中野+長島の意図によるものが(ほとんど)何も用意されていないという事実はそれ自体何を意図したものなのか。『四谷雑談集』『四家の怪談』について考えることを通してツアーパフォーマンスという形式について、そしてリアルとフィクションとの関係について考えていきたい。

 

1.ツアーパフォーマンス試論

ほとんどのツアーパフォーマンスはリアル=現実の風景と何らかのフィクションによって構成されているが、両者の関係にはいくつかのバリエーションを見出すことができる。ここではそれらを仮に「借景型」「衝突型」「視点操作型」「聖地巡礼型」の4つに分類してみることにしよう。

「借景型」のパフォーマンスは現実の風景をパフォーマンスの背景として取り込む。そこで構築されるフィクションは周囲の風景=リアルと調和しているため、リアルとフィクションとの境界は限りなく曖昧であるように感じられる。F/T10の主催プログラムの1つとして、いくつかの廃屋を舞台にある一家の架空の(?)歴史を展開した飴屋法水『わたしのすがた』はこのカテゴリに分類することができる。

「衝突型」は「借景型」と似ているが、構築されるフィクションが周囲の風景と不調和を起こすものであるという一点において決定的に異なっている。昨年度のF/T12におけるPortB『光のないⅡ』では、新橋の街中に原発事故以降の福島の様子を伝える報道写真に写された光景が「再現」されていた。それらは当然、新橋という場所との間に強烈な不調和を起こすことになる。そこでは新橋と福島との間にある距離がリアルとフィクション(構築された再現)との間の軋みとして立ち現れていた。

「視点操作型」は鑑賞者の知覚・認識に何らかの形で働きかける。昨年KAATのKAFE9という企画で「上演」された『Promenade blanche』という作品では、鑑賞者は非常に濃いスモークのかかったバイザーをかけた状態で、つまりは視覚の大半を奪われた状態で街中を歩いた。あるいは、市原幹也+野村政之『LOGBOOK』では、鑑賞者は他者の書いた地図を手に街を歩くことで自らの者とは異なる視点をインストールする。

 そして「聖地巡礼型」。『四谷雑談集』『四谷の怪談』はひとまずこのカテゴリーに入れることができるだろう。「視点操作型」が鑑賞者に新たな認識のモードをインストールするのに対し、「聖地巡礼型」は場所に物語をインストールすることで成立する。現実の風景にフィクションを重ねて見るという意味では「聖地巡礼型」は「借景型」と近似しているが、「借景型」では上演/鑑賞のその場でフィクションの生成が行なわれるのに対し、「聖地巡礼型」ではフィクションは鑑賞に先立って存在している。「聖地巡礼」という言葉は本来の用途から転じて、「何らかのフィクションの舞台となった実在の場所をファンが訪れる行為」を指すものとして使われている(とは言え、宗教もある種のフィクションであると考えるならばこのような言葉の用法は原義通りであるとも言えるのだが)。「聖地巡礼型」という命名はこの用法に基づいたものであり、そこでは「ある固有の場所を舞台とした物語」を踏まえてその場所を見るということが行なわれることになる。鑑賞者は「ある固有の場所=リアル」から生成された「物語=フィクション」を再び現実に照射する形で鑑賞に臨むのである。鑑賞者の側に認識のモードが埋め込まれているという点では「視点操作型」の一種と言うこともできるが、両者には大きな違いがある。「視点操作型」が鑑賞者に普段とは異なる知覚、新たな視点を提供するのに対し、「聖地巡礼型」は現実の中にフィクションを再帰的に見出すという鑑賞態度が基本となるからである。

もちろん、ここで展開した4つの分類は厳密なものではなく、1つのツアーパフォーマンスの中にいくつかの要素が混在しているような場合もあるだろう。だがこのように整理していくことで、ツアーパフォーマンスを上演/検討する際のいくつかの軸が見えてきたように思う。フィクションは【事前】に用意されているのか【鑑賞中】に生起するのか。【場所】の上にフィクションを構築するのか【観客】の側に構築するのか。フィクションと現実は調和しているのか不調和を起こしているのか。最後の項目は現実がフィクションに【同化】しているのかそれともフィクションが現実を【異化】しているのかと言い換えることもできる。そしてそれはパフォーマンスがフィクションに焦点をあてるものなのか現実に焦点をあてるものなのかという違いでもある。

以上3つの軸に基づいて先ほどの4つの分類を整理し直すと以下のようになる。「借景型」は【鑑賞中】に【場所】と【同化】したフィクションを生成する。「衝突型」は【鑑賞中】に【場所】に作用し現実を【異化】する。「視点操作型」は【鑑賞中】に【観客】に作用し現実を【異化】する。「聖地巡礼型」は【事前】に【場所】と【同化】したフィクションを用意する。表にまとめればこうだ。 

借景型  :鑑賞中/場所/同化

衝突型  :鑑賞中/場所/異化

視点操作型:鑑賞中/観客/異化

聖地巡礼型:事前 /場所/同化

この分類では単純に考えて2×2×2=8通りの組み合わせがあるようにも思われるが、中には実現が困難であるような組み合わせもある。たとえば【事前】に現実を【異化】することは(あるいはそのような認識のモードを鑑賞者に用意することは)おそらく不可能だろう。また、【場所/観客】の軸は実際的には切り分けることが難しい場合も多い。すでに述べたように「聖地巡礼型」は【場所】に物語をインストール(付与)しているとも、ある場所を物語の舞台として認識するようなものの見方を【観客】にインストールしているとも見なすことができるだろう。ここでは、鑑賞者のそのような認識のモードがその場所に固有の、その場所でしか起動しないものであることから、便宜上【場所】に分類しているに過ぎない。

 

2.『四谷雑談集』『四家の怪談』

さて、整理の過程で『四谷雑談集』『四家の怪談』をひとまずは「聖地巡礼型」に分類したものの、実のところ「聖地巡礼型」のツアーパフォーマンスというのはほとんど存在していない(と思われる)。おそらくその原因は「聖地巡礼型」の構造にある。ある固有の場所を舞台に展開されたフィクションを現実のその場所に再帰的に見出すという「聖地巡礼型」の構造の中では、それを体験する中で鑑賞者が新たに得られるものは乏しいのだ。景勝地に行って「写真と同じだ」という感慨を抱く観光客を思い浮かべるとわかりやすい。それは記憶の反芻であり、自分の中にすでにあるものを確認しにいく行為でしかない。わざわざそれをツアーパフォーマンスの形にする意味を見出すことは難しいと言わざるを得ないだろう。

ではなぜ『四谷雑談集』『四谷の怪談』はツアーパフォーマンスの形式として「聖地巡礼型」を選んだのか。問いの検討に入る前に、『四谷雑談集』と『四家の怪談』についてもう少し補足しておきたい。『四谷雑談集』と『四家の怪談』はともに「聖地巡礼型」のツアーパフォーマンスであり、中野+長島による直接的な介入が最小限に抑えられているという点も共通しているが、少なくとも2つの点で決定的に異なっている。1つはツアーの形式。冒頭で述べたように『四谷雑談集』はガイド付きの集団ツアーであるのに対し、『四家の怪談』は地図こそ手渡されるものの、そこから先はほとんど何の制約もない完全な個人行動である。もう1つの違いは「物語」の時代設定にある。江戸時代を舞台とした「四谷雑談集」と現代を舞台とした「四家の怪談」。おそらくここで指摘した2つの違いは互いに密接に関連しており、そこにこのパフォーマンスが「聖地巡礼型」であることの意味を読み解く鍵がある。

『四谷雑談集』はなぜガイド付きのツアーなのか。それは「四谷雑談集」の舞台が江戸時代であり、当時の街並みと現在の街並みとが大幅に異なっているため、ガイドなしでは物語の痕跡を辿るツアーを成立させることが難しいからである。ではなぜ地図ではなくガイドなのか。地図の有無は鑑賞者がツアーの道筋や目的地をあらかじめ知ることができるか否かという違いを生む。目的地やチェックポイントの記された地図を片手にツアーに出た場合、鑑賞者の興味は訪れた先にあるものに集中するだろう。結果として、辿る道筋に対する注意は幾分なりとも散漫なものになる。一方、地図を持たない鑑賞者は自らの注意を集中させる特定の対象を持たず、ゆえに周囲への注意の度合いは一様なものとなる。目的地も辿る道筋も知らされずにツアーに出る鑑賞者の注意は宙吊りの状態に置かれるのだ。通常のツアーでは見るべきポイントを解説するために=注意を誘導するためにガイドが存在するのだが、『四谷雑談集』においてはそのような意味でのガイドはほとんど機能していない。もちろん、いくつかのポイントではガイドによる解説がなされるものの、その解説はほとんどどうでもいいような内容であり、鑑賞者の興味をそれほど強く引くわけではない。グループごとに異なるガイドによる異なるコース、異なる解説が用意されていることも、ガイドによる解説の内容それ自体はさして重要な(固有の)意味を持たないことを示唆している。さらに言えば、「四谷雑談集」とは無関係なスポットについての解説も多く、そこには現実の街並みを「四谷雑談集」と結びつける意図は(それほど強くは)ないことが伺える。つまり、『四谷雑談集』は「四谷雑談集」を基にしたツアーパフォーマンスの体裁を採っていながら、その実、「四谷雑談集」という物語を現実の風景と重ね合わせることは必ずしも意図されていないのである。

では地図の用意された『四家の怪談』はどうか。「四家の怪談」は現代を舞台とした物語であるため、地図さえあれば物語の舞台を辿ることは容易である。用意された地図には「四家の怪談」の舞台となるいくつかの場所が記されている。ところが、その場所に行ったところでそこに特別な何かがあるわけではない。鑑賞者が目にするのは完全な日常の風景である。そこに「四家の怪談」の物語を重ねてみたところで、それは強力なフィクションを立ち上げる装置とはなりづらい。現代を舞台とする「四家の怪談」の物語はそもそも鑑賞者の現実と地続きであり、両者の境界は曖昧なものだからである。「聖地巡礼」を行なう者がそこにフィクションを見出すことが出来るのは、実のところその場所に強度の思い入れ(信仰心やファン心理)があるからなのだ。事前に書籍を入手することは可能であるとは言え「四家の怪談」にそのような思い入れを持って臨む鑑賞者はそれほど多くはないだろう。しかも、地図にはたしかにいくつかのスポットが記されているものの、「四家の怪談」の舞台は当然のことながらその地図の全域に及ぶものであり、地図上で特に説明の付されていない場所に「四家の怪談」の物語を見出すこともそれほど難しくはない。地図上に記されたスポットは特権的な意味を担うものではないのである。「四家の怪談」では言及のないいくつかの場所に関する説明が地図に書き込まれていることからもそのことは明らかである。『四家の怪談』においてもまた、鑑賞者の注意を特定のポイントに集中させることは意図されていない。「四家の怪談」というフィクションは現実の街並みを歩く鑑賞者に付かず離れずの距離で寄り添い続ける。

ここまでの検討から明らかになったように、『四谷雑談集』においても『四谷の怪談』においても、鑑賞者がフィクションに焦点を当てることは必ずしも意図されていない。いや、フィクションに限らず、特定の対象に鑑賞者の注意が集中することはこのツアーパフォーマンスの意図するところではないのである。中野+長島によって用意された「仕掛け」はどれも、鑑賞者が素通りすることも出来てしまう程度の「引き」しか持たないように作られている。*1結果として鑑賞者は、ツアーパフォーマンスに参加しているにも関わらず注意を向けるべき特定の対象を持たない状態で過ごすことになる。この「宙吊りの時間」、無目的な街歩きこそが、『四谷雑談集』『四家の怪談』で意図されたものではなかったか。*2ツアーパフォーマンスに参加している時点で鑑賞者には普段以上の注意を発揮する準備が整っている。感度が高まっていると言ってもよい。にも関わらず、ツアーパフォーマンスの中には注意を向けるべき特定の対象が存在せず、鑑賞者はごく日常的な風景を見続けることになるのである。

PortB『光のないⅡ』では、被災地の再現と新橋の街並みとの強烈な齟齬が、新橋の街並みという現実に対する鑑賞者の視線を否応無く更新してしまった。現実を異化するということはそういうことである。それに対し、中野+長島の企てはおそらく更新される以前の視線に向けられている。現実に新たな視線を向けるのではなく、ニュートラルな(自然体の)視線のままに「街」と向き合うこと。特定の建物や出来事に注意を集中するのではなく、漠然とした街というものと意識的に向き合う機会は日常生活の中ではほとんどない。更新される以前の視線というものは実のところほとんど存在していないのである。中野+長島はそのような更新される前の、可能な限りニュートラルな視線を街へと呼び込もうとしていたのではないか。その意味では、「四谷雑談集」と「四家の怪談」という物語は街歩きのために用意された契機、仮の目的でしかないのである。

自然体で街を見ることが出来たとき、そこは無数の物語へと開かれている。「四谷雑談集」と「四家の怪談」は街に寄り添う無数の物語のうちの2つに過ぎないのである。そもそも、実話を元にした「四谷雑談集」とそのバリエーションとしての「四家の怪談」という今回のモチーフは初めから物語の複数性を示唆していたし、『四谷雑談集』のガイドも、「四谷雑談集」とはまた異なる物語への端緒をいくつも差し出していた。地図上に記された「四家の怪談」とは無関係な場所には、また別の物語があるだろう。2つのツアーパフォーマンスは、物語を再帰的に現実の中に見出しフィクションを反復強化するのではなく、現実の中に自生する無数の物語をこそ掬い上げる視線を獲得するための試みとしてあったのである。 

だが言うまでもなく、このような試みが効果を上げることは難しい。街歩きに日頃から親しみ、街にニュートラルな視線を向ける習慣のある人間にとってはいつもと変わらないという意味で物足りなく、逆にそのような習慣のない人間が今回の仕掛けで街への視線を獲得出来るかと考えるとそれも疑わしい。そもそもニュートラルな視線は獲得させられるようなものではないのだからそれも当然である。あるいは、2つのツアーパフォーマンスは結果としてそのような「ニュートラルな視線」を「獲得すること」の困難さを暴き出してしまったのかもしれない。強い物語は人を惹きつけるが、その代償として無数にある弱い物語を覆い隠してしまう。『四谷雑談集』と『四家の怪談』は強い単一の物語に対し、あくまで自然体のままにささやかな抗いを示そうとしていた。

 

山崎 健太(やまざき けんた)

演劇研究・批評。本企画を主催。早稲田大学大学院文学研究科表象・メディア論コース博士課程。映画美学校批評家養成ギブス1期修了生。批評同人誌ペネトラ同人。劇評サイト・ワンダーランド、BlogCamp in F/T 2012、KYOTO EXPERIMENT 2013 フリンジ企画使えるプログラム支援系Aなどに参加し劇評を執筆。劇団サンプルの発行する雑誌サンプルvol.1に「変態する演劇 −サンプル論−」を寄稿。@

■ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yamazaki-kenta/

■ブログ pop_life http://yamakenta.hatenablog.com

 

*1:実際には、ツアーの道中には明示された仕掛け以外にも、鑑賞者がそれとは気づかないような形で(気づけばそれはそれで楽しめる程度のスタンスで)、いくつかの仕掛けが用意されていたものと推測される。たとえばご当地アイドルの歌を流す真っ黄色の宣伝カーなどがそれだ。

*2:「宙吊りの時間」については藤原ちからによる東京デスロック『モラトリアム』評も参考のこと。