Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

マームとジプシー『cocoon』

いくら想像を逞しくしても追いつきようのない出来事に近づこうとするとき、演劇はどのような手だてをとることができるのか。マームとジプシーによる新作劇「cocoon」は、この問いを反芻させる。

 

原作は、第二次世界大戦末期、沖縄で「ひめゆり学徒隊」に従事した少女たちに着想を得た今日マチ子によるマンガだ。物語の主眼は戦争の悲惨さにはなく、作中に「ひめゆり」の文字も登場しない。舞台は現代の少女が夢でみた光景として展開されていくが、そこに広がるのは、サン(青柳いづみ)を中心に、音楽の授業で一人歌わずふて腐れる子がいたり、憧れの先輩にじゃれついたりといったありふれた学校生活である。その様子を俯瞰するように、彼女たちの姿形や性格についての口述が角度を変え位置を変え、矢継ぎ早に繰り出されていく。登場人物にまつわるこれらの描写は、作・演出を担当する藤田貴大が「リフレイン」と呼ぶ手法を用い、波打ち際を思わせる動作や今日の描くイラストと共に舞台の隅々で終盤まで執拗に再現される。

 

当初は友人を紹介する語りであった口述は、時を経るにつれ一人ひとりを看取る記憶の再現へと変化する。どんな人物が傍らにいたのか、少女たちの口から語られる記憶のボリュームには差がある。日々を共に過ごした間柄であっても、目にしていたはずの姿形も朧げな少女がいることもあらわになっていく。

 

原作においては、「戦争」という背景から想像される暗澹としたイメージを裏切るように、モノクロの細い線で淡々と描くスタンスが取られる。一方舞台では、サンのその後の行動を決定付ける出来事に至り、舞台に設置されたスクリーンは今日のイラストからビデオカメラ映像へと切り替わる。ガマで看護していた兵士によって主人公サンが被る決定的な痛みについてのこの描写は、日常の延長線上に起きた出来事として扱われる。原作者である今日、作・演出の藤田ともに、偶然その時代に生まれたひとりの少女としてのあり方に着目しようとした結果が舞台に反映されている。その後の捕虜収容所での主人公の言動に「普通さ」を潜ませた原作と比較するとこの効果は弱いものの、少女たちの歌声や衣装、スクリーンにうつるイラストなどが、物語の普遍性を保つ役割を担っている。

 

ともすれば陰惨な場面や砂の上をひたすら走り抜く姿、客席に響く轟音に身体ごと浸ったまま幕が下りるところ、パフスリーブや細いリボンのついた白の衣服を纏った少女の口から東京の言葉遣いで絞り出される声が今現在との境を危うくし、そうした陶酔を拒む。ラストシーンで「これは2013年である」と語られるとき、サンを守っていた繭(cocoon)が破れ少女の夢は姿を消す。沖縄と東京、68年前と現在・・・本作は、距離を歪ませるかのような振る舞いと想像力によって手の届かない出来事に手を伸ばそうとするものである。