Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

都市表象から見るりりこの変容 岡崎京子『ヘルタースケルター』論

0. 序

 岡崎京子の漫画『ヘルタースケルター』は、初め『FEEL YOUNG』誌(祥伝社)1995年7月号から1996年4月号に掲載された作品で、2003年には祥伝社から単行本が刊行されている。岡崎が交通事故に遭い、創作活動の中断を余儀なくされたために惜しくも未完となったままではあるが、2003年度(第7回)文化庁メディア芸術祭・優秀賞、そして2004年度(第8回)手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞している。

 主人公りりこは、もとは大柄でひどく太った女の子だったが、大々的な全身整形手術によって理想的な美しい身体を手に入れ、今やスターの道を駆け上がろうとしている。しかしこれは醜い女の子の変身物語ではない。りりこは幕開けから既に美しく、整形手術前のりりこの姿は全くと言ってよいほど描かれない。大都市東京でモデルやタレントとして引っ張りだこのりりこは、第1章にして既に手術の後遺症であるアザを見つける。定期的な辛い手術と薬で治療を続けてはいるものの、それも結局は後遺症とのいたちごっこである。溢れんばかりの美の絶頂の内側で、ヘルタースケルター(=螺旋型滑り台)の如く、りりこの崩壊は加速してゆく。一方、りりこの通う整形クリニックには違法医療行為の嫌疑がかかり、担当となった麻田検事はりりこの過去を洗い出していた。りりこは自分の過去の容姿を否定しようとする。しかし既に心身はともに限界に達し、彼女は幻覚と不安のなかを彷徨うようになっていた。りりこはクリニックから処方された薬を捨て、別の薬と酒に溺れてゆく。そんなとき、マネージャーの羽田はりりこの過去に関する資料を見つけ、それをマスコミに暴露してしまう。いったんマスコミから遠ざかっていたりりこは、人々の話題に返り咲くこととなった。しかし商品としてのりりこはもはや「使い物」にはならなかった。ずっとりりこをプロデュースしてきた社長は、終止符として記者会見を用意する。りりこは密かに、その会見での自殺ショーを計画する。一方で麻田は、前触れもなくクリニック捜査の担当を外され、異動を命じられていた。それぞれの立ち位置が揺らぎ始め、りりこと麻田の不安は互いに感応し、ひとつの幻想をつくり出す。東京という大都市のなかでは、恨みをこめた自分の死さえも一瞬のうちに消費され、忘れ去られてしまうことをりりこは悟る。彼女は結局記者会見に姿を見せず、計画していた自殺ショーをすることもなかった。そして血まみれのホテルの床に片方の眼球だけを残して、東京から忽然と姿を消す。場面は不意に5年後に切り替わり、眼帯をつけフリークスショーをするりりこの姿は、遥かメキシコの地にある。

 この全316頁に及ぶ物語の中で、最後のメキシコのシーンに割かれたのは僅か数頁である。壮絶なりりこ失踪の記憶も東京のめまぐるしい日常の中に回収されてゆき、物語は終結しようとしていた。しかし、それまでの加速度的崩壊の速度のままふと消え去ってしまったかに見えたりりこは、この最後のページで悠然とメキシコに現れる。りりこはそれまで、見られるだけの存在だった。しかし我々はここで突如、メキシコから見つめ返すりりこの視線に捕えられるのである。では、この東京からメキシコへの移動はなぜ行われなければならなかったのだろうか。本稿ではこの問いを基に論を展開してゆく。りりこの移動を考えるためには、まずりりこがいた東京とはどのような場所だったのかを理解しなければならないだろう。そこで本論第1章では「りりこと都市」について見てゆく。そしてそれを踏まえ、第2章では「外科手術=東京からの脱出」としてりりこの移動の意味を明らかにし、第3章で「歴史の遡り」というテーマを絡めてこの移動の意味をより立体的に捉えたい。

 

1. りりこと都市

 りりこが全身を整形し、一世を風靡するスターとして生きているのは、東京という一大都市である。りりこというスターを要請し、作り上げたのは東京であり、りりこは東京に生かされていると言っても過言ではないだろう。りりこと東京とは切っても切り離せない関係にある。そしてそのことを示すように、作中彼女と都市とは一体のものとして表現されているように見受けられる。では『ヘルタースケルター』において、りりこのいる東京とは、具体的にどのような場所として描かれているのだろうか。

 

1-1. モンタージュとしてのりりこと都市

 作品の第1章において、りりこが「皮をはぎ 脂をとかし 肉をそぎ 肉を詰め 歯を抜き あばら骨をけず (p.173、以下引用頁数は全て2003年出版の祥伝社『ヘルタースケルター』に依る))」るという全身整形手術をして生まれた一種の人造美女であることが明らかになる。りりこの所属事務所の社長である「ママ」が、りりこの化粧担当であるキンちゃんに打ち明ける場面である。そして、それに続く整形クリニックでの場面との間に、工事中のクレーンが何台も「ガコンガコン」と稼働している絵(p.34)が差し挟まれる。この一連の流れの中で、この絵の持つ意味は大きい。都市もいわば“整形”されているのだ。ここにおいて都市とりりことは同義である。

 都市とりりこはどちらも、コラージュのように継ぎ接ぎされる存在として描かれている。この作品には、目や口といったりりこの身体の断片だけが描かれたコマが多い。りりこの顔や身体の美しさは、これまでに名を馳せた女優やモデルのパーツをつなぎ合わせた「イメージのモンタージュ」(p.120)であり、その姿は「我々の欲望そのまま」(同前)なのである。りりこは、人々が見たいと思う理想の姿に限りなく近づくように、イメージの断片を寄せ集めてつくられたモンタージュとして存在している。一方、東京という都市もまた、人々の欲望に従って手を入れられ、徐々に、部分的に造りかえられてゆくものである。都市とは、その時々の需要によってつくり出されるさまざまな造形物のコラージュであると言えよう。作中で岡崎が描く街は至って平面的である。この奥行きのない切り貼りされたような都市の姿に、「表面だけ」(p.72, 120)のキメラ的なりりこの姿が重なって見えてきはしないだろうか。つまり『ヘルタースケルター』において、都市は手を加えられ整形されるものとして、りりこと併置されているのだと言える。

 そう、都市もまたひとつの身体なのだ。そしてここにおいて、街が乗っている地盤は、都市の「骨格」として浮かび上がってくる。

 

 骨格が素晴らしかった!! 奇跡のようだった/(中略)/その土台の絶妙なバランスと 配置が問題なのよ 表面なんていくらでも変えられるもの(p.173)

 

これはりりこについての「ママ」の言葉である。しかしりりこと都市とをメタファーでつないだとき、この言葉はそっくりそのまま都市に当てはめて捉えることができるのではないだろうか。都市もまた、ある骨格の上についた筋肉や表皮のあちらこちらを日常的に取り替え、不断に変形しつつ形成されているのだ。

 

1-2. 欲望する有機体としての都市

 都市が地盤や土地という骨格を持ち、その上に人工物でできたコラージュのような表皮を被った存在であるとすると、都市が今にも動き出しそうに見えてはこないだろうか。増殖してゆく建築物群はそのまま、人々の飽くなき欲望のメタファーである。そのことを感じさせるような都市の描写が、作中には多くある。それは例えば、次のようなコマに象徴的に描かれている。りりこの妹ちかこが、検事麻田と話す場面で、ちかこは言う。

 

あたし… もっとやせて… きれいになりたい!!(p.232)

 

しかしこの台詞が言われているコマにちかこの姿はなく、吹き出しは夜の街から直接出ているように描かれている。街自体が、欲望する有機体のように思えるシーンである。

 ところで、この骨格を持った街がその部位だけを取り替えつつ、有機的に成長してゆくというイメージは、1960年頃に起こった建築思潮運動「メタボリズム」を想起させる。戦後の発展と経済成長の機運の中でまったく新しい都市の在り方を模索したこの運動において、人口の成長やそれぞれの生活の変化に対応して、人間と共鳴しながら柔軟に変化・増築できる建物が考案された。「メタボリズム」とは生物学で新陳代謝の意味であり、機構を維持していくために古いものを脱ぎ捨て更新してゆく、有機的な都市が目指されたのである。しかし結局、この思想による構想は東京を含めほとんど実現しなかった。『ヘルタースケルター』における東京もやはり、「メタボリズム」の建築家たちが超克しようとしてできなかった都市の姿であるように思われる。東京で行われているのは、決して自由で自然な新陳代謝というものではなく、ただただ追われるように流行を更新することで存在価値を維持しているかのような、いびつで混乱に満ちた新陳代謝である。そして、それを内側から促進するのが、物語の終盤になっても止むことのない女性たちの「キレイになりたーい」「アレ欲しい〜」(p.309)という声のパレードである。東京の街を背景にそれらの吹き出しが描かれたコマには、次のような言葉が添えられている。

 

みんな何でもどんどん忘れてゆき ただ欲望だけが変わらずあり そこを通りすぎる名前だけが変わっていった(p.309)

 

東京という都市は人々の欲望を原動力とし、流行という皮膚を日々更新してゆくことで、めまぐるしく新陳代謝を行っているのである。

 

1-3. そして、りりこは都市の皮膚である

 急速に新陳代謝をしながらうごめいている都市、東京。その最も外側の表面にある広告や看板、雑誌の表紙を飾るりりこは、いわば都市の皮膚である。だからこそ、りりこは時とともに脱ぎ捨てられ、忘れ去られてゆくのだ。りりこもそれをわかっている。

 

いくらがんばって「別の世界」とやらをつくったとしても それはすぐ捨てられ 忘れられちゃうじゃない?/ポスターなら何週間?/雑誌なら1ヶ月? CDなら半年?本なら?1年?2年?3年?/ねえ!? みんなゴミバコ行きじゃないの!!(p.158)

 

紙に印刷され、あるいは映像として流布するりりこは、彼女を商品として消費する人々にとっては文字通り表層的で二次元的な、イメージだけの、ほとんど幽霊的な存在だと言ってよい。終盤でりりこが東京から姿を消し去ったときの人々の反応はこうである。

 

最初からりりこっていなかったんだって〜/(中略)/つまり〜 ユーレイでぇ〜 死んでて〜 でも現れたのよ/ウッソー じゃオバケ〜/(中略)/りりこって実は美の天使様だったんだってー(pp.307-308)

  

簡単に超人的なものに置き換えられてしまうほど、りりこは現実離れした存在として認識されていたことが分かる。彼女たち消費者にとっては、りりこは日常とはかけ離れた場所にいるのであって、その生身の身体を感じることは難しいのだろう。そしてまさにその遠さゆえに、りりこは消費の対象になっているのである。

 消費されるということにはふたつの側面がある。商品としてのりりこは、彼女たちには手の届かない存在であるからこそ、一方でスター=羨望の的であるのと同時に、他方ではモンスター=奇形として彼女たちの実生活から疎外されてもいる。しかしその憧憬と疎外は、都市に生きる消費者の日常を動かすために必要な行為なのである。彼女たちは日々の流行を追い、それを瞬く間に忘れてゆく。生物の身体機構がその一部として常に表皮を必要としながらも、新陳代謝によって次々にそれを脱ぎ去ってゆくように。ただ、東京という生命体のそのサイクルは目眩がするほどに早いのだ。東京は無秩序に発展し、人間を押しつぶしてゆく。

 

1-4. ヘルタースケルター

 『ヘルタースケルター』において、りりこや都市はそうして疾走する。その表象には、加速度的上昇と加速度的下降の両方のイメージがつきまとう。作品の題名であるヘルタースケルター(helter-skelter)とは、「螺旋形すべり台」を意味し、また同時に「混乱」という意味もあるが、本稿ではそのどちらかに意味を限定することは避けたいと思う。ここではむしろ、混乱しつつ螺旋形に疾走するイメージとして捉えることとする。このイメージは以下に述べるように、りりこと都市に共通して与えられている。

 「表面は美しいが中身は虫に喰い荒されている果物」(p.198)、それがりりこである。りりこの中には双方向の螺旋がある。ひとつは、ますますきれいになり、モデルやスターとしてもてはやされていく上昇の螺旋である。そしてもうひとつは、消費され他人の欲望を満たすことで肉体的にも精神的にも空虚になってゆく、下降の螺旋である。この作品の世界においては、ある方向に進もうとすると、否応なくその反対方向にも進んでいってしまう。りりこは美しくなることを選んだ。しかし、それは彼女の崩壊と表裏一体だったのである。りりこは欲望する自己(主体)と、その欲望によって消費される自己(客体)の二つを持っている。そしてその両極に緊張関係を保ちながら疾走してゆくふたつのヘルタースケルターを内包したりりこは、ふたつの間で引き裂かれそうになっているのである。また、りりこは「気分が超ハイの時もあったし 超ローの時もあった」(p.72)とキンちゃんは回想する。この状態を躁鬱、またの名を“双極性”障害と呼ぶことをここで確認しておきたい。ここにも、両極のベクトルを抱えたりりこが象徴されていると言ってよいだろう。

 また、都市もまさに欲望する主体の集合であると同時に、その欲望によって切り刻まれ、整形されてゆく客体でもある。自分で自分を喰い荒らしながら膨張してゆく都市の姿。右肩上がりの経済発展を遂げながらも、その裏には都市の市場原理に翻弄された数えきれないほどの犠牲がある。しかしその加害者と被害者を峻別することはできず、もはや絶対的な責めは誰も負うことができなくなっているだろう。

 

ただあたしは体を使って遊びたいのよ

んでもって 他人をめちゃくちゃにして遊びたいだけ

だって仕方ないじゃない? あたしだって他人にめちゃくちゃにされてるんだから(p.167)

  

そして次の頁では、台所で無惨な死に様をした女性の姿が、何の言葉も添えられずに、見開きで見せつけられる。それはごく単純に美を求め、金でそれを買おうとし、傷ついていった女性たちの声なき叫びである。確かに、作中最もよく叫び、泣きじゃくるのはりりこである。しかしその叫びはりりこだけのものではない。それは東京の夜景を背景に、あるときは理想美と現実の身体の狭間で苦悩する女性たちの感情の吐露として、またあるときは押し殺した恐怖と不安の声にならない叫びとして、あるいは笑いや涙、怒号や嘔吐、あるいは静かなほほえみや自死に形を変え、作中に綿々と響き渡ってゆくこととなる。ここで我々はこの作品の巻頭言、「最初に一言 笑いと叫びはよく似ている」(p.8)を思い起こすことになるのだ。市場原理で動く都市という生命体は、双方向に疾走する欲望のヘルタースケルターを内包している。そしてその中に生きる人々は多かれ少なかれ、このヘルタースケルターに乗っているのであり、上昇しているのか下降しているのかも分からないままに、美や流行への欲望に駆り立てられ、傷つけ傷ついているのだと言えよう。

 

1-5. 都市のDNA

 東京という生命体が内包し、そこに生きる人々を突き動かす双方向のヘルタースケルター、それは言い換えれば、二重螺旋構造を持ち遺伝情報を伝える、都市のDNAであろう。りりこは若い頃の社長そっくりに似せて造形されたという。彼女は社長の「「反復」もしくはレプリカント」(p.146)なのである。こうしてりりこは生まれたときに両親から受け継いだものを「踏みつぶしてやった」(p.85)と言う。しかし生来の容姿を捨て整形手術を受けることを選んだとき、彼女は代わりに都市のDNAを受け継ぐことになったのである。ここにおいて、社長が「ママ」と呼ばれることは示唆的である。血のつながりがないにも拘らずりりこから「ママ」と呼ばれる社長は、りりこを生んだ都市のメタファーでもあるのかも知れない。また、街にあふれるりりこに似た容姿の女性たちや、クリニックで働く「整形シスターズ」など、整形手術を受けた女性たちはりりこに似た同じような姿になってゆく。血縁によってではなく、都市という母体が持つ欲望のDNAによって反復・継承されてゆく美の系譜が、ここには垣間見える。こうしてこのモティーフは作中に幾度も繰り返されている。

 更に、りりこを生み出したのが都市のDNAであるとするならば、彼女はそのDNAに支配されてもいる。東京において、りりこは徹底的に消費される存在である。物語は東京の街にいる女性たちの「やせてー」という言葉から始まり、終盤になってもその欲望の声が止むことはない。そしてその渦中で、りりこはずっと消費者の好奇の目に晒され続けるのである。また彼女を生み出した都市のメタファーであるところの「ママ」に対しても、りりこは反発しようとしつつ結局は何も言うことが出来ない。

 

ママ:あたしがあんたを育てたのはビジネスじゃない/あんたはあたしの“夢”なんだよ

りりこ:[ああママのことばを聞いてると また頭の中が曖昧になってゆく ぽおーとしてくる なんなんだろう… このやりくち…](p.126) 

 

引用の最後の一行は、立ち並ぶビルの夜景の空にポツリと浮かぶように書かれている。なんだかんだとりりこをもてはやし、流行のままにりりこを消費する人々の生きる都市に、りりこは呑み込まれているのだ。自分は自分なのだ、誰のものでもないと思いつつも、その欲望の坩堝のなかでりりこは何も考えられなくなってゆく。彼女はそれこそ都市の表皮でしかないのだ。都市に支配され、上辺のイメージだけを消費されて、りりこの心身の内面は益々空疎になってゆく。

 

カメラがシャッターを押すたびに空っぽになってゆく気がする/いつも叫びたくなるのを必死でおさえているのよ(p.86)

 

こうして都市の美の系譜に連なるということは、取りも直さずりりこという個体が表皮に回収されてしまうということでもあったのだ。りりこの抱えるものがどうしようもない空虚であるからこそ、その叫びはどこにもやり場のないものとなる。そしてその空っぽな叫びを押し殺したまま、りりこは消費者が聞きたそうなことだけを、上辺だけでしゃべるのである。

 

[ホラ こういうのって聞きたいでしょ?/(中略)/これはあたしが言ってんじゃない あんた達が言わせてんのよ/(中略)/あんたたちそう思いたいでしょ? だからあたしが言ってやるのよ](p.119)

 

このように、りりこは大衆に見られることによって、過度に姿形や言動を規定される存在である。しかしそれは整形すると決めた時点で、りりこ自身が選んだことでもあった。彼女はスターへの道を駆け上がるとともに落下してゆく、二重螺旋のヘルタースケルターに乗ってしまったのである。自らの美と引き換えに、消費されることを選んだりりこ。自身の中に名声と空虚を抱え、それらが別々の方向に振り切れて崩壊してしまいそうになるのを、りりこは必死で抑えているのだ。だが抑えきれなくなってりりこは叫ぶ。叫ぶだけではなく、物語の最初から、りりこは罵り、泣き、笑い、吐く。言ってしまえばりりこは「出し」続けるのだ。これはあらゆる人に搾取され、吸い取られて空っぽになってゆくことの表象なのかも知れない。けれども空っぽになってゆくことに耐えきれなくなったときでさえ、りりこは自らを充足させることができない。彼女は選んでしまったのだ。りりこは都市のDNAの相反する二つの螺旋を抱え、その間で引き裂かれゆく存在である。だからりりこは東京から姿を消す直前まで、ずっと「いたい いたい」と叫び続けるのである。

 

2. 外科手術=東京からの脱出

 以上のことを踏まえつつ、ここからはりりこの東京からの脱出について述べてゆくこととする。物語は、りりこが血まみれの部屋に片方の眼球だけを残して忽然と東京から消え去る、というクライマックスへと向かう。この突然やってくる壮絶な場面と、その5年後にメキシコにいるりりこを、果たしてどう読んでいったらよいのだろうか。 

 

2-1. 自らの手による外科手術

 りりこが全身整形をしていることが世間に知れ、またその身体も後遺症で使い物にならなくなっていったとき、りりこは「ママ」に尋ねる。

 

りりこ:で どうするの?/あたしの廃棄処分は?

ママ:最後まで責任もちます/あんたをこうしたのは私なんだから/(中略)

りりこ:[あたしはママのこわれたオモチャ 役に立たないペット 最後までねえ…でも最後って何よ?](p.286)

 

「ママ」の言う最後、それは商品としてのりりこの終わりである。「ママ」はりりこの「最後の」席として記者会見の場を設ける。しかしりりこは、内心では「あたしはママのものじゃない あたしはあたしのもの」(p.125)という気持ちを抱えてきた。その思いが、記者会見に集まったマスコミの前で、まるで見せしめのように自殺するという計画をりりこに抱かせたのである。これまで「ママ」や消費者の“みなさん”の要求に従って東京の論理の中で生きてきたりりこ。彼女はその“みなさん”に対して「最高の悪意をこめて死んでやる」(p.297)と決意したのである。

 ところが、りりこは結局予定されていた記者会見にも姿を現さず、計画していた自殺ショーを演じることもなかった。そのきっかけになったと思われるのが、不法医療行為のかどで整形クリニックを調べている検事、麻田の言葉である。麻田は達観した視点を持った存在であり、またりりことの親和性を持ってもいる。このことについては後に言及する。記者会見の直前に倒れたりりこに、麻田の言葉が聞こえてくる。

 

そんなサービスをしても皆さんにはむだだ/15分もたてば忘れられてしまう(p.304)

 

この場面は幻想的に描かれていることから、りりこが頭の中で作り出したシーンなのかもしれない。しかし、いずれにしろりりこが心の底では分かっていたことでもあるのだろう。りりこはその言葉に反論しない。そして、代わりに片方の眼球を自らえぐり出すという行為に及ぶのである。

 このあまりのことに我々は束の間圧倒される。しかしりりこにとってそれは、自分の身体に植えつけられた痛みを克服することでもあった。この幻想的なシーンにおいてもまだ、りりこは割れそうな頭痛を抱えている。そしてその痛みとは、他者による整形手術によってりりこに与えられたものだった。「そうだ もっと別の痛みを与えれば…」(p.304)そう言ってりりこは左の眼球を自分の手でくり抜くのだ。これは、今まで他人の手によって身体を加工されてきたりりこが、初めて自分自身で行った外科手術である、とも言うことができよう。それはそれまでの頭痛など散らしてしまうほどの激しい痛みである。眼球をえぐるという行為によって、りりこは頭痛が象徴しているとも言える都市の要求や欲望といったものに抵抗しているのだ。彼女は人々の欲望のモンタージュとなるとき、つまり整形手術を受けたときに背負うことになった痛みを、自ら与えた痛みによって乗り越えたのである。

 更には、りりこはその眼球だけを残して、身体を全く東京から消し去る。この行為は極めて象徴的である。身体とは見られる対象として存在する。そして東京という都市において、りりこが「見られる」ことはそのまま、消費されるということを意味していた。消費者である“みなさん”の視線によって、りりこの言動や姿は全て商品のレヴェルに引き下げられてしまうのである。一方で眼球は「見る」ことの象徴である。すなわちここにおいてりりこは、その身体を見られることなしに、目だけになって東京の人々を見つめ返しているのである。そのニュースがすぐに「大喜び」で消費されるとしても、彼女自身にとってのこの行為の意味は大きい。りりこは自分の身体を消費するだけの、市場原理で動く東京という都市を捨てた。あるいはその都市から、自らの身体を引き剥がしたのである。あとには悪意を込めた視線だけを残して。

 そうしてりりこはメキシコへ飛ぶ。しかしその前に、りりこが東京から飛び出すということの意味を明確にするために、東京の中で疎外されることとの違いをはっきりさせておく必要があるように思われる。

 

2-2. アウトロー

 東京の中で疎外されるりりこは、アウトローな存在である。不法手術を受けた身であり、他者に硫酸をかけて怪我を追わせるなど、彼女の行動は「正常」の範疇を超えて、過剰である。また先に述べたように、注目を集めるスターであるということは同時に、日常から疎外されているということでもある。しかし、都市の中でアウトローな存在として疎外されてゆくという点では、その排除は都市に内包されているものだと言ってよいだろう。社会機構をうまく回してゆくために必要だということは、そのシステムに含まれているということだからである。ところで作中にはもうひとり、アウトローな存在がいる。

 

ぼくと彼女はいつも同じ役回りなんだよ/いつだって…/いつだって…(p.289)

 

検事としてクリニックの真相に近づいてゆく麻田もまた、逆説的に法からはみ出す存在である。麻田は、原則としては法の下で真実を解明してゆくのだが、法はときに権力者に味方する。政界のお偉方の中にも、りりこの通うクリニックの客がいるために、真実を明かされては困る権力者たちがいるのだ。しかし彼は正義を通そうとする。麻田は、きれいすぎる、あるいは正義に偏りすぎているためにアウトローなのだ。麻田はクリニックを巡る諸事情に迫り過ぎたためか、事件の担当を異動となる。「恒常的に身体が健康に機能するためには 異物をとりのぞかなければならない」(pp.270-271)ということなのだ。これも都市の外科手術の一環である。社会機構を回すために法がグレーゾーンにあるとしたら、真っ白も真っ黒もアウトローなのだ。りりこも麻田も、法のグレーゾーンが円滑に動くために、同じように疎外されていくのである。このことは幻想的に描かれる以下のシーンに象徴されている。

 

麻田:ぼくときみは前世である神父の同じ帽子の羽だった/風が吹いて ひとつは残り ひとつはとばされた/ただどっちがきみでどっちがぼくかわからない

りりこ:そうね/そうだった/結局のところ/そうよねえ(pp.264-265) 

 

極端なものは簡単に入れ替わりうるのである。不法医療行為を巡って、追及する者と追及される者という立場においては正反対であるものの、アウトローな者として疎外される「羽」の役回りは二人とも同じなのだ。神の掟に従って生きるところの神父というモティーフは、一定の法によって動く有機体・東京と近似している。そしてその被る帽子とは、帽子の上と下を分断するものである。帽子を隔てて、神父は自分の身を、東京はその秩序を守っている。ということはつまり、帽子の上についた羽とは、帽子を被る身体と一体でありながら、実は帽子の下にある身体からは疎外された存在なのだ。東京にいる麻田とりりこは、言うなればこの帽子についた羽の位置にいる。その羽のうち、ひとつは残り、ひとつはその帽子からも吹き飛ばされてしまう。そしてこのときは、りりこという「羽」が、東京という機構の外に飛び出してゆくのである。

 

2-3. 東京からの摘出

 姿を消してから5年後、りりこの姿はメキシコにある。りりこは帽子から羽が飛ばされるように、東京というひとつの有機体から完全に外れ、その法の圏外へ抜け出したのだと言える。りりこはこれまで東京という場所で上昇と下降という垂直運動をしてきたが、東京からメキシコへという場所の移動は、それとは正反対の平行運動である。それまでずっと東京で旋回し続けてきた螺旋軌道を外れ、空間軸上の座標をふいに移したのである。これは東京の内部で疎外されることとは全く異なる運動である。りりこは、東京が持つ垂直方向のヘルタースケルターと切結び、そのままメキシコへと平行移動したのである。垂直と平行がぶつかるとき、そこに現れるのは十字のイメージである。

 

法なんて人間のこしらえたルールに過ぎない/善も悪もはげしさを増すときかるがるとそれをのりこえる/それはいつも十字路の上で起こるのだ(p.288)

 

りりこが記者会見で自殺ショーを思い立つ直前に、別の場所で麻田が言う言葉である。彼は真相を明らかにすべく機密資料を故意に流出させ、国家を相手取って正義を貫こうとしているのである。社会の垂直軌道に従わず、個人がそれを横切ろうとするとき、そこには十字の傷ができる。そこには必ず痛みが伴うのである。りりこにとってはその痛みこそ、後遺症の激しい頭痛を乗り越えようと目をえぐったときのあの痛みである。りりこは自分の目をえぐると同時に、自らを東京から摘出したのだ、と言うこともできるかも知れない。それは大量消費社会の欲望という垂直方向に伸びる螺旋に抵抗し、その機構を否定したりりこが通らなければならなかった十字路である。りりこは他人の所有物としての自分を否定し、自分の道を進み始めた。もし、りりこがそのまま東京という生命体の内部に留まったならば、依然としてその原理によって動くシステムの中にいることになってしまっただろう。りりこは東京と分離する必要があった。りりこが遠くはなれたメキシコへ移動するのは、東京という機構の外部へと、完全に抜け出したことのメタファーなのである。りりこが東京からメキシコへ行く過程は描かれない。そこには断絶があるのだ。 

 

3. 歴史の遡り

 そしてまた、大都市東京から砂漠のメキシコへの移動は、時間の遡りのメタファーでもある。東京にいたとき、りりこは複製技術を媒体として商品たりえていた。しかしメキシコでのりりこはもはやマス・メディアの前にはいない。りりこは事物がまだアウラを帯びていた時代に戻ったのである。また、絵画表現という観点に立てば、りりこの描かれ方は断片の寄せ集めから一点透視法の描き方へと移行している。

 

3-1. 一回性への回帰

 メキシコでも、りりこはショーをしている。事務所の後輩にあたるこずえがりりこを目にするのは、フリークスショーにおいてである。しかし、東京でのりりこと最も異なる点、それはりりこがショーをしているのが、マス・メディアの前ではないということである。観客とりりこの間には何の機械も存在せず、観客はりりこを直接見る。それは一回限りの経験である。東京からメキシコへの移動は、そのまま複製技術時代からそれ以前の時代への遡りなのである。「今」の塗り重ねを繰り返す東京でモデルとして生きていたとき、りりこの身体はイメージの断片として大量に流布し、消費されていった。そうしてりりこは空っぽになっていったのである。しかしながら、メキシコでのりりこは今やその場限りの「見る/見られる」という関係性の中にいる。りりこは「いま・ここ」の独自性を獲得したのだ。アウラを感じられるような唯一無二のものとして、りりこは確固としてそこに存在している。そして、同じ空間にいて彼女を見る者を、直接見つめ返しているのだ。そのまなざしには、それまでにはなかった、ある力強さが宿っている。

 

3-2. 複数のパースペクティブから単一のパースペクティブへ

 東京の街の中でばらばらになっていたりりこは、メキシコという砂漠の地でひとつに回収されたと言えるだろう。それは最後のページに描かれたりりこの姿に表象されている。それまでの平面的で断片的なりりこの姿をキュビズム構成主義絵画に喩えるならば、この最後のりりこの姿は、線遠近法に回帰していると言える。東京で大衆の視線に晒されていたとき、りりこは複数のパースペクティブから見られた姿の集合として存在した。それは複製技術によって可能となった身体性である。しかし、比喩的に時代を遡って、ここはメキシコである。最後のページで、りりこは遠近法の構図に収まっている。ここでのりりこは画面のちょうど中心、つまり一点透視図法で言うところの消失点からこちらを見つめているのである。りりこはもはや他人の視線に依存することなく、独立した単一のパースペクティブからこちらを見つめているのだ。

 

4. 結 ─東京への視線

 最初の問題提起とは、東京からメキシコへの移動はなぜ行わなければならなかったのか、ということであった。この問いに対して、本稿第1章では、東京がDNAのように受け継がれる欲望のヘルタースケルターを内包した有機体として捉えられるということを述べた。そして第2章では、りりこが眼球をくり抜き東京から脱出することが、市場原理に支配された東京のヘルタースケルターを見返し、そこから抜け出すことの表象であるということを結論づけた。そして、第3章ではその近代的都市システムの超克を表すために、都市から砂漠への場所の移動に加えて、描画がモンタージュ的手法から一点透視画法へ置き換わっているのだということを確認した。りりこは都市の表皮として消費される自分を否定し、自分を消費することしかしない東京を否定した。それゆえりりこは東京の外部へ、一回性を取り戻せる場所へと飛び出す必要があったのである。

 暑く乾いたメキシコの地で、りりこは東京から来たこずえを見つめ返す。良いモデルとして消費構造の中に取り込まれつつあるこずえを見つめるりりこの視線は、東京の人々への視線でもある。そしてこのカットにおいて、りりこの姿はルネサンス以来の遠近法の中に収まっているのであった。額縁に囲まれ、一点透視法で描かれた絵画を見るとき、鑑賞者の視点は一点に決められる。消失点にいるりりこと、それを見る者とは、完全にあちらとこちらに分断され、一対一で真っ向から対峙することとなる。向こう側からこちらを見返すりりこの、孤高の姿。それは、乗り越えた側から乗り越えられた側への視線である。読者もまた、りりこが忽然と姿を消し、そのまま東京に取り残されていたのである。そして突然、場面が5年後に切り替わる。その額縁の向こうに突如現れたりりこの、誰をも寄せ付けぬ不敵な笑みに我々読者は狼狽えるのだ。読者はまさにその乗り越えられた側である東京に、未だ置き去りにされたままだからである。それゆえ、りりこの姿は我々東京の人間の目に、圧倒的な、突き抜けた存在感をもって迫ってくるのである。

 

○参考文献:岡崎京子ヘルタースケルター』祥伝社、2003年/『メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン』新建築社、2011年/川添登 編集『メタボリズム1960:都市への提案』美術出版社、1960年