Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

【対談】F/T13公募プログラム全演目&F/Tアワードを語る[part3]

★[part1 公募プログラム国内演目編]はこちら

★[part2 公募プログラム海外演目編]はこちら


■薪伝実験劇団『地雷戦2.0』[作・演出 ワン・チョン]
2013.12.05〜12.07@シアターグリーン
[落○ 山崎○]

落:私、これ初日に観たあとに山崎君にメールしたよね。「全然面白くないからぜひ観て考えを教えてほしい」って。

山崎:「面白くないからぜひ観て」ってどういうことかと思ったけど(笑)。ゲーム的な形式での生死の反転と、吹き込んだ音声の時間差での回帰が地雷の爆発を表す手法は地雷(戦争)の無差別性、一度仕掛けたら自分にも牙を向くかもしれない地雷(戦争)の本質をある面から鋭く捉えていたと思う。つまり、地雷(戦争)は本質的に馬鹿馬鹿しい非人称のゲームでしかない。タイルを剥がして作り出された十字架を挟んで戦う場面もその馬鹿馬鹿しさに通じてるんだと思うけど、その辺のモチーフの取り入れ方が中途半端な印象。十字架とか原爆のモチーフは普遍への志向だと思うんだけど、「地雷」がかなり強力にパロディ化されているのと比べると他のモチーフの扱いはいかにも手緩い。

落:手緩いし、浅い。並べただけと言っていいと私は思う。声を拡声器に録音して仕掛けて、それに振り回されるという構造には、地雷の本末転倒さがよく表れているけれど。演出におけるテクストのコラージュの手法についてはF/Tアワード講評会で言及されていて、好評価の理由ですらあったけど、たとえば女優が独りで朗読していた謎の性描写部分は全体の中で超浮いてた。コラージュによって浮かび上がるはずの像のフォーカス精度が最後まで低かったので、テクストが評価される理由になったのはよく分からない。玉音放送の高速引用なども、あそこから2013年の日中の緊張関係を読み解くのは難しくない?山崎君、できた…?

山崎:Qのときにもチラッと言ったけど、俺は必ずしもコラージュの結果、一つの像を結ぶ必要があるとは思ってないんだけど、それにしても今回の地雷戦2.0では地雷以外のモチーフの導入は雑で、あまり効果を挙げていないと思う。作品が2013年の日中の緊張関係に関連しているって指摘は、講評かなんかにあったんだっけ?玉音放送も「戦争一般」の表象の一つのなのかなと思ったんだけど。

落:相馬さんが講評映像の最後に言ってた。

山崎:いずれにせよ、原爆はともかく玉音放送がたとえば中国でどの程度認識されているのか=中国ローカルの文脈でどの程度理解されうるのかって考えると、それはあまり知られてないんじゃないの?って気がする…。だとすると玉音放送は日本の観客に対する目配せでしかなくなるよね。現代の日中の関係については日中戦争のプロパガンダ映画を題材にしてる時点で作品の射程に含まれてると思うし、地雷(戦争)のモチーフだけでも十分に普遍たり得ると思うので玉音放送とか原爆とか取り入れるならそれなりのエクスキューズというか構造が必要だと思う。あるいはもっと過剰になんでもかんでも取り入れて並置するか。

落:原爆って、あの上から黒い拡声器が降りてくるシーンのことよね。日本で原爆モチーフを扱うのって結構センシティヴな問題だけど、そういう危うさも戯画化で茶化されてしまうとやはり感受しにくい。

山崎:原爆ですらゲームの一部として提示してしまうというのは表現としてありだとは思うんだよね。現代においては原爆も戦争も非人間であるという点では変わりはない。もう一つ思うのは、中国では検閲の問題とかあるからプロパガンダ映画のパロディをやるっていうことそれ自体にかなり大きな意味を見出せるし、それが作品の存在意義になるんだろうけど、その文脈から外れたとき、戦争のゲーム性というモチーフとワンアイディアの手法だけでは作品を成立させるには不十分なのではないかということ。

落:中国の検閲というのは、問題となる事項が含まれているというだけで反射的にアウトなのだろうね。去年、北京に一か月出張したことがあって、ちょうど天安門事件の日にちとかぶってたから、NHK(ホテルで見られる)がしょっちゅう1989年当時の映像を流していたの。そのたびに画面が真っ暗になって、ニュースが終わったころ何事も無かったかのように朝ドラが始まる。とにかく「含まれている」だけでアウトになるので、含まれているモチーフの「効果」を勘案しているわけではない。だから、そういう中国で上演差止めになった作品だからといって、日本で上演された場合のクオリティが保証されるわけではない、というのはもちろん前提。

山崎:作品自体には普遍を志向している痕跡が見えるけれども、それが上演される意義の多くは中国というローカルな文脈に拠っているというところに齟齬があるように俺には感じられる。

落:戦争についての普遍を志向するということは、つまり「これが"戦争"の本質です。」と言うことに等しいはずだけど、とてもその主張には頷けません、というのが私たちの違和感の正体かな?

山崎:そこはちょっと違うかな。俺はこの『地雷戦2.0』も十分に戦争のある一面における本質は捉えてると思う。でも一方でそれが単に「戦争反対」って叫ぶことからそれほど離れていないようにも感じられる。ブラックジョークとしての切れ味も感じられなかったし。だから、これを表現すること自体に意義を見出せる中国の文脈から離れたとき、この作品が舞台芸術として自立するに足るポテンシャルを孕んでいるかが疑問。だからローカルな文脈を考慮に入れて評価するならわからなくはないけど、そうじゃないならあまりいいとは思えない。審査のことを考えるなら中国の文脈は審査員に了解されている可能性はまだ高いわけで、それが台湾やシンガポールの文脈となるとどうかって問題が出てくるよね。

落:赤ちゃんとか老人の、デフォルメされた演技もすごく茶番っぽくて鼻白んでしまったし、コンセプチュアルな主題を志向しているわりに俳優の演技・演出のレベルがお粗末。仕草の内容は確かに伝わりやすかったけど、それは「グローバル」とか「インターナショナル」な表現だからではなくて、ただのごっこ遊びレベルの身振りだからでしょ。

山崎:それは表現としては「ゲームの一環」だからでは?あれは全てを馬鹿馬鹿しくやることこそが目的でしょう。戯画化をどの程度許容するかは文化的背景によってだいぶ違いそうだし。訓練という意味ではもっとちゃんとやれよと思うところもなくはなかったけど。個人的にはもちろんやり過ぎだと感じたけどね。

落:そうなると「中国の文脈から離れたとき」という山崎君の言葉をやはり考えざるを得ない。アジア諸国が、あまり文化的背景を共有していないということは、簡単に「驚いて」「感動」できてしまう可能性があるということで、去年のF/Tアワード受賞作のシアタースタジオ・インドネシアの、プリミティブかつダイナミック、呪文のような台詞のパワーだって日本の観客には強烈な体験だったように思う。それに飲まれないためにも、国ごとの文脈を知って汲んでいくことは、予想外のものに出会って無条件に感動してしまうことへの予防策になるかも、と今思った。


■F/Tアワードと演劇批評


落:2012年のF/Tのテーマは「ことばの彼方へ」で、東日本大震災以降、日本人アーティストたちが考え続けてきたことがある程度作品に結実していった時期だったけど、結局アワードはインドネシアの団体だった。そして今年も受賞は中国のカンパニーだった。作品のレベルがアワード受賞に達していなかったと判断されたのだから仕方ないし、アワードが射程にしているアジア全体の中にもちろん日本は入っていると思うけど、日本人作家の衝動たる問題意識は今、公募プログラムにおいて評価の場を失ってさまよっているように私には思える。戦争や紛争を扱ったらそれが普遍か、ということには、今、薪伝実験劇団について振り返ったところで「否」という結論になったわけですし。戦争や紛争や、検閲のない国にも、切実なテーマはあるはず。まあ日本だっていつまでも安穏とはしてられなさそうだけどさ。もちろん、この話は闇雲に「日本の文脈を尊重してほしい」と言っているわけではないことは分かってね。

山崎:最初の方にも言ったけど、「個別の問題意識」を「評価」するということそれ自体が難題というか問題含みなわけで。

落:その国の事情や文脈、作品が生まれた背景を知ったうえでの評価は問題も多いし難しいだろうけど、他の文学や戯曲のあらゆる賞がそうであるように、選考において審査員の「美学」が押し出されることは往々にしてある。sons wo:を推したけれども、受賞はさせられなかった飴屋さんが「もう審査員はやらない」と言ったあの場面は、古今東西の伝統的な(?)抗議辞任としての振舞いだと受け止められるよね。

山崎:大切なのは、これはアワードのまた別の存在意義として掲げられていることだけど、「言葉を与えること」だと思うんだよね。それを考えると落さんの提議した問題についてはアワードというよりはむしろ批評の不毛こそが糾弾されるべき。

落:批評の言葉が育っていないという指摘はその通りで、アワードを受賞した理由も大切だけど、公募プログラムに集まって来るアジアの若手演出家たちの仕事を丁寧に言葉にした結果、同時代の共時性が見えてきたり、それゆえに異なっているものが分かるほうが重要。

山崎:もちろんアワードでは作品に評価を下さざるを得ないわけだけど、個々の作品でどのような試みが行なわれていたのかを具体的に指摘していく作業がもっと行なわれてもいい。これはF/Tというよりはもっと演劇全体の話としてね。むしろF/Tは作品関連イベント、トーク、ドキュメントと用意されていて作品を取り巻く言語環境はすごく充実してる。だから問題は用意された場以外では作品に言葉を与える試みが極めて少ないってこと。今回この対談では、それぞれの作品を落さんと俺がどう評価したのかという話ももちろん入ってきてるけど、個々の作品でどういうことが行なわれていたのかに対する指摘の方が重要だと俺は思ってる。「いい/悪い」「好き/嫌い」の言説だけでは対話の余地も積み重なるものもないから。



落:森山直人さんが、今年の講評の映像で「公募プログラムによって、東京が演劇づくりのアジアのネットワークの拠点になってきた」と発言していたけれど、確かにそれに対する言葉を与えたいと考える人が少ない。公募プログラム全体の集客がそもそも低い印象がある。けれど、アジアの作り手が東京を目指したいと思うようなネットワークがもしできるなら、批評だってそこに追いついていかなければいけないですね。


 「積み重なるもの」という言葉が山崎君から出たけど、やはりそれを大切にしていきたい。そこで最後にもう一つ話題に挙げたいのが、2013年12月30日に、東京デスロックの多田淳之介が韓国の第50回東亜演劇賞(作品賞、演出賞、舞台美術賞)を受賞したというニュース。東亜日報の彼のインタビューを読んだのだけど、これまでの彼が時間をかけて韓国演劇界と創作を続けてきたことが分かるものだったし、Twitterでは平田オリザの長年の活動についても言及していた。国を越えて「分かり合えないことを分かり合う」スタート地点に立つためには、とても時間がかかるんだと改めて思った。F/Tアワードは、始まってまだ四回しか行われていないし、「アジアの文脈」などについて、私たちもすぐには語る言葉を見つけられない部分はもちろんある。だけど演劇作品について、あるいはそれについて書かれた何かを読んで「好き/嫌い」を言うだけでは、作家の仕事をちゃんと見たことにならないし、作家ががんばってるだけで批評家ががんばってないことになるもんね。誰かが言葉を尽くすということは、一見議論の余地を剥奪していくことのように見えるけど、反論や疑問が生まれることによって、むしろ余地を広げていくのだと思う。それが作家と観客(という言い方が広すぎるなら、少なくとも批評を試みようと思っている人)にとって、お互いに誠実な態度なんじゃないかという希望を、今は持っているのです。 [了]

 

 

山崎 健太(やまざき けんた)

1983年生まれ。演劇研究・批評。本企画を主催。早稲田大学大学院文学研究科表象・メディア論コース博士課程。映画美学校批評家養成ギブス1期修 了生。批評同人誌ペネトラ同人。劇評サイト・ワンダーランド、BlogCamp in F/T 2012、KYOTO EXPERIMENT 2013 フリンジ企画使えるプログラム支援系Aなどに参加し劇評を執筆。劇団サンプルの発行する雑誌サンプルvol.1に「変態する演劇 −サンプル論−」を寄 稿。@

■ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yamazaki-kenta/

■ブログ pop_life http://yamakenta.hatenablog.com

 

 

落 雅季子(おち まきこ)

1983年生まれ、東京育ち。会社員。主な活動にワークショップ有志のレビュー雑誌”SHINPEN”発行、Blog Camp in F/T 2012参加など。藤原ちから氏のパーソナルメディアBricolaQスタッフ。@ 

■BricolaQ http://bricolaq.com

■ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/

■観劇ブログ「机上の劇場」 http://an-armchair.jugem.jp

【対談】F/T13公募プログラム全演目&F/Tアワードを語る[part2]

★[part1  公募プログラム国内演目編]はこちら

★[part3  F/Tアワードと演劇批評の未来編]はこちら

 

※各自、観劇したものは各演目名称の直後に○、未見の場合×を記した。

■ゴーヤル・スジャータ『ダンシング・ガール』[振付 ゴーヤル・スジャータ]
2013.11.26〜11.27@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:ダンスだから言葉で説明するのは極めて難しいんだけど、F/Tのサイトに「データ化、再編集」ってあるように、ざっくり言うとインドの古典舞踊を解体再構築した作品。おそらくはインド古典舞踊の動きやポーズを切り刻んで「静止画」のように取り出したものを並べて順に提示していく。基本的に「静止画」なのでポーズA→しばし停止→ポーズB→しばし停止→ポーズCって感じで続いてく。あとは照明の変化。全体としては徐々に明るくなっていきつつ、部分だけを照らしたり360度ゆっくり回転しながら周囲から照らしたりする。最後に客席をじっと見つめて終了、だったはず。
 ムーブメントの再構成は手法としては有名どころではウィリアム・フォーサイスとかがやってるしコンテンポラリーダンスでは目新しいものではないんだけど、はじまってすぐのほぼ闇の状態で身体の一部にのみうっすらと光が当てられるシークエンスはとてもよかった。ムーブメント自体がダンサーから幽霊的に乖離して浮かび上がるような感覚。わずかな時間で闇に消えて、また次の幽霊が立ち現れる、その間の闇にも観客はそこにない動きとしての幽霊を見ることができたと思うし。ただ、明るくなってくにつれてそういう効果は薄れていくわけで…。それが解体→再構築の流れだったのかもしれないけど、最初がとにかくインパクトあったのでそれを越えられなかった印象。

落:なるほど、想像するに、古典舞踊の「分解」で終わってしまったということかな。分解したものを「分類」する過程が作品に反映されるかはともかく、「再構築」は言葉で言うほど簡単ではないね。「分解」がある程度鮮やかであれば、観客側が見て補えることもあるけれど。

山崎:冒頭部はそれがうまくいってたのだと思うんだけどね。

落:これは、台詞がなかったの?

山崎:うん、台詞はないダンス。「暗→明」ではなくて「明→暗」だったらだいぶ評価が違ったかも。暗がりに浮遊する振付の断片を観客が脳内でダンスへと再構築するということは十分あるわけで。あとはダンサーのアイデンティティの問題にもフォーカスをあててたらしいんだけどそのあたりはよくわからず…。F/Tのサイトに掲載されてるインタビューで本人が作品についてかなり詳細に語っているんだけど、観客がそれを読み取れるかというと結構難しいんじゃないかなーと思う。必ずしも読み取れなくてもいいのかもしれないけど。

落:ここまで話してみると、山崎くんが何を認めるか認めないか、いろいろ評価軸が分かって面白い。

山崎:マジか!(笑)むしろその話詳しく聞きたいわ(笑)。というのは冗談として。次、台湾。

 



■シャインハウス・シアター『真夏の奇譚集』[作・演出 ジョン・ボーユエン]
2013.11.29〜12.01@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:ホラー短編演劇の四本立て。黒髪ストレート長め、白のストンとした装飾なしのワンピース、目には隈の「貞子スタイル」の女性4名とハンディカムによる撮影役男性の計5名で上演。シアターグリーンベースシアターの壁際が全部客席で、階段状の部分も含めて演技スペースは観客に囲まれた状態。演技スペースに三方を紗幕で囲まれた「部屋」があって、それ以外にも何箇所か垂れ下がってる紗幕に上演中はハンディカムの映像をリアルタイムで映し出す。紗幕と映像で去年のF/Tでのヒッピー部を思い出したけど、映像の使い方としては今回のシャインハウス・シアターの方がこなれてはいたかな。ただ、見た目の面白さ以上の効果を挙げていたとは思えない。その「面白さ」も「それなり」レベルで決して新しくもなく。芸能人がお化け屋敷で驚かされるテレビの映像(なんか緑色の映像になるやつ)を思い出してもらえれば映像の質感的にはほぼそういう感じ。紗幕使ってるから裏表逆の映像が見えたりするのはまあそれなりに面白いけど…、といった感じ。ホラーの出来の基準を「恐怖」に求めるのであれば物語も表現も全く怖くなかったので失敗だと思う。


落:私はホラーがとにかくだめなので、F/T用のYouTube宣伝動画ですら全部観られなかった…でも映像ではお化け屋敷みたいな原初的な怖さしか感じなかった。原初的っていうのは「びっくりして怖い」みたいな、あんまり頭を使わない怖さのこと。

 

山崎:実際劇場で見るとそれすらないというか、やっぱり生身の人間がやってるもので恐怖を演出するには物語か演出で相当の工夫がないと厳しい。怪談が「語り」の形式をとることが多いのはその方が想像の余地がある分、怖いからなんだと実感。シャインハウス・シアターのは物語的には説明過多だし演出的にも余白がなかった印象。たしかどれも女性が主人公になってて、F/T公式の説明を見ると現代社会に警鐘を云々って書いてあるけど、それぞれの話に社会的な問題提起があったかは激しく疑問だな。

 

落:「霊より生きてる人間のほうが怖い」という、人間くささに寄った作りであれば、社会への警鐘云々というのも、もしかしたら出来たかもしれないね…。ここの演出家のジョン・ボーユエン氏は、1985年生まれで若いのね。俳優として広告やテレビや映画で活躍、というプロフィールを見ると、社会問題を深くえぐる作品というよりは、エンターテイメントも好きなのかな…?

 

山崎:ちなみに覚えてる範囲だと男に捨てられその男のマンションから飛び降りた女の霊の話、一緒に暮らしてたおばあちゃんが亡くなったので父母と暮らすことになったけどうまくいかず、霊界のおばあちゃんと電話で会話するも実はそれがニセモノで霊に食われそうになる話、山で仲間とはぐれて不思議体験(あんま覚えてない…)、被災地で女の子に両親を探してあげる約束をするも実は死んでいたのは女の子の方で、埋まっていた彼女を発見、霊能力で彼女の魂を呼び戻し蘇生!?というラインナップ。生きてる人間も霊も貞子スタイルの女性が演じてたので、最後に撮影者の男を主人公にしたドンデン返し的なものがあるのかと思いきやそれもなく。芸術表現として攻めてるところはほぼ見当たらず、かと言って純粋なエンタテインメントとしては出来が悪く、といった印象。




■ソ・ヨンラン『地の神は不完全に現わる』[構成・振付 ソ・ヨンラン]
2013.11.30〜12.01@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:韓国の伝統的な舞踊と音楽の起源を探った成果をレクチャー&プレゼン形式で。インタビューの音声とかパワポとか組み合わせつつ、間に実演を挟む。伝統の要素を現代の中に見出したり。日本の石焼き芋の呼び込みとかせんだみつおゲーム的なものとか、いわゆるアートとは見なされないものの中に芸能の断片を見出していくのはちょっと面白いところもあった。変にアカデミックにもアートにも寄らず、自然体なプレゼンにはまあ好感は持てたんだけど、それはつまり、例えば大学生の発表とかとスレスレなところがあるってことで。パフォーマンス自体にはあまり魅力を感じなかったです。というかそもそもそういう強度はおそらく求めてないんだけど。劇場のフォーマットでやるより伝統芸能に関する展示の関連企画とかでやった方が面白く見られたかも。

落:なるほどねえ。「パフォーマンス自体にはあまり魅力を感じなかった」というのは「物足りなさ」という言葉に言い換えられる?だとすると、やはり、作家自身のひらめきの羅列に終わってしまったように思えるということかな。それはさっきの『ダンシング・ガール』での、分解と分類の話でいくと「分類」に終始してしまったということで、それゆえに、学生の研究発表プレゼンとすれすれ、みたいに見えてしまったのかしら。

山崎:物足りないと言えば物足りないんだけど、作品のテーマを考えるとそれは意図的なものなんだよね…。だから今の落さんの言葉だとちょっと評価が厳しすぎるかなあ。や、俺の説明が言葉足らずだったんだけど。つまり、伝統的な芸能のエッセンスを現代に見出す/その起源を辿るって試み自体が既存の「アート」に回収されないものの提示を目指しているのであって、それを作品として「再構成」して「完成された」ものにしちゃうとそれこそ「アート」の文脈に再回収されることになっちゃうから、そこは回避せざるを得ない。でも一方でそれを劇場で上演してる時点で舞台芸術の枠組みには組み込まれざるを得ないわけで、その矛盾を乗り越えるとか無効化するような構造が仕組まれていたかと言うとそんなこともなく、そうすると結果として生ぬるい舞台作品と見るしかない…。ものすごく練られた構成の知的なパフォーマンスなのはたしかなんだけど。

落:何かの「再構築」「再編」あるいは「破壊」とか、作品が向かう先は様々だけど、私は「分解」と「分類」のどちらかではだめ、と思っている。絶対だめではないけど、そのどちらかに偏ってしまっている場合「それなら口で喋れば分かる」とか「Excelで図示すれば分かる」というふうに演劇作品としての面白みや、必然性が落ちることが起きうるからですね。

 


■タン・タラ『クラウド』[構成・演出 タン・タラ]
2013.12.05〜12.07@シアターグリーン

[落× 山崎○]

山崎:『クラウド』ってタイトルの通り、情報量が多過ぎて十全に説明できる気がしないんだけど、パフォーマンスとしては日本人俳優による語り、横並びの2スクリーンによる映像、ラストに登場する歌手の歌の3つで構成された作品。俳優による語りと映像は何回か入れ替わりながら提示される。俳優の語りのときは映像で海とか風景を映し出していたような…。いずれにせよ俳優の語りと映像で提示される物語との間に明確な意味上のつながりはなかったと思う。俳優はクラウド化する現代社会の状況みたいな内容を相当な早口の日本語で語ってたように思う。

 一方、映像で展開されるのは男女の痴話喧嘩。男が浮気をしていると責め立てる女。ショッピングセンターで見知らぬ男から復縁を迫られる女。そして事故などで記憶を保持することができなくなった人の代わりに思い出を作り、それを移植手術で提供する仕事につく女。明確なつながりは示されないものの、断片的な情報から推測するに、女が男の浮気相手だと思っているのはおそらく「記憶提供者」で、復縁を迫ってきた男も女が「記憶提供者」として記憶を作るために接触した人間だったと思われる。記憶の外部化が可能になった社会のスケッチ、といったところかな…。で、合間合間に日本地図とその左上にTwitterのつぶやきの断片が映し出される。内容にはあまり意味がなかったと思うし、けっこうなスピードでつぶやきが切り替わるから全部読むのはかなり難しかったと思われる。

落:映されてるTwitterのつぶやきは誰のものなの?

山崎:アカウント名が付されていたように思うけど、たしかバラバラだったはず。不特定多数のつぶやきを思わせるランダムさ。で、ラストシーンは歌。普通のポップスでラブソング。舞台中央あたりの台に腰掛けて熱唱…。好意的に解釈するなら俳優/映像/歌手っていうメディアの並置も日本語で英語中国語(シンガポールだから。インドネシア語もあったかも)の言語の並置も「クラウド化」し、あらゆるものがフラットになる現代を反映している、と見られなくもないけど、実際のところ全然フラットになってなくて、何でわざわざ日本語?/俳優?/歌手?という疑問だけが残った。

 記憶のテーマについてはSFとしては全然新しくないし、それが舞台作品で扱われているのは珍しいかもだけど、舞台作品なりの手法に昇華されているかというとそれも疑問。『クラウド』の世界では記憶が移植可能であるがために、ある主観視点からの映像が特定の一人に属するものではなく、原理的には誰の視点(=記憶)でもあり得る、というのは面白かったけど、それは映像表現の話だからね…。

 

落:なるほど……ではいよいよアワード受賞作の中国、薪伝実験劇団に行ってみましょう。



★[part3  F/Tアワードと演劇批評の未来編]はこちら

【対談】F/T13公募プログラム全演目&F/Tアワードを語る[part1]

 フェスティバル・トーキョー(以下F/T)では2010年度から、40歳以下のアジアの演出家を対象にした公募プログラムの上演を行っており、アジアの若手カンパニーの作品を日本で観る機会となっている。公募プログラムの詳細はこちらのF/Tのページを参照。

 最も新しい価値を創造したと認められる作品には、F/Tアワードという賞が与えられ、次年度のF/T主催プログラムとして招聘されることになっているが、果たして国境を越えて作品を評価するとはどういうことなのか?アジアにおける「同時代性」とは何なのか?落 雅季子の提案により、山崎 健太との対話形式で、今年度のフェスティバル・トーキョーの公募プログラムを振り返り、批評言語の獲得を試みる。なお、本文は往復書簡として、12月18日から12月29日までにやりとりしたメールに追記、再編集したものとなる。(掲載は全三回)

 

★[part2  公募プログラム海外演目編]はこちら

★[part3  F/Tアワードと演劇批評の未来編]はこちら



落:今回話したいのは、F/T公募プログラムの審査に関して。アジアに根ざした公募プログラムの意義は理解できるけれど、昨年(シアタースタジオ・インドネシア[インドネシア])、今年(薪伝実験劇団[中国])と、日本以外の作家がF/Tアワードを獲っていて、そうなると、今は日本の若手作家の考えるべき問題が見えづらい時代だと前から思っているの。何を考えてもアジアの文脈にはなりえないのか、それが日本の作家にとっていいことなのか、分からない。特に私は、今年の薪伝実験劇団の作品の受賞に全然納得していなくて、講評会の動画を見ても釈然としないのです。まだ審査員の文章での講評は出ていないけれど、映像レベルでは言葉も時間も足りないように感じた。ふたりとも全部見ているわけではないけど、私と山崎君で今年の公募作品はコンプリートしているので、とりあえずは山崎君が見た演目とあわせて印象を擦り合せたい。

山崎:本題に入る前に、俺のスタンスを改めて。今回の『地雷戦2.0』がよかったかと聞かれたら俺にもいいとは思えなかったというのが率直なところ。でも一方で、俺にとって趣味判断を越えて批評たり得る判断として「よくなかった」ということを言うのは極めて困難だとも思ってる。と言うか自分としてはいい/悪いの判断自体が批評には馴染まないものだと思っていて、それは批評にできるのはそこで何が起きている/たのかを分析することでしかないと思っているからなんだけども。もちろん、その批評がさらに別の効果を持つことはあるにせよ。だから、よくなかったと感じられる作品について何かを語るのは俺にとっては極めて難しい。そこで何が起きているのかがわかっててなお面白くない、と言うとき、その「面白くない」は趣味判断でしかないんじゃないかという気分があるわけです。
 一方、何やってるかわからないから面白くないという場合もあり得るわけだけど、こちらはこちらで作り手の力不足なのか批評する側の力不足なのかというまた別な問題が生じてくる。しかもこちらに関しては現状圧倒的に見る側の、あるいは語る側の力不足(力のある人の人員不足)だろと思わなくもない…。ともかく、この辺を踏まえて、公募の話をするのであれば、俺に出来るのはこの作品のここがよかった、というかこの作品ではこういうことが行なわれていた、ということを具体的に指摘していく作業しかないのではないかと思っているのだけど、落さん的にはどうですか?

落:いつもながら対象との距離がきわめて明確な態度だね(笑)。それはともかく、もちろん、作品ごとに行われていたことの指摘は重要だし、お互い見落としがあるかもしれないものね。二人とも共通して観ているのは、と、sons wo:と、薪伝実験劇団の三演目なので、それ以外の団体について、注意深く具体的に報告しあうようなことをしてみましょう。そのうえで、指摘されたその「演出」行為が、山崎くんあるいは私にとって、どの程度「効果」を挙げていたように見えたかということを話すことは、OKですか?

山崎:具体的な報告をし合うことは了解。ただ、俺興味持てないとすぐ細部を忘れるからあまり自信なかったりもするのだが(笑)。ま、やれるだけやってみましょう。「どの程度効果を挙げていたのか」についても、いい/悪いと同じでなかなか難しい、というかそこに個人的な主観が入ってきちゃうとこもあると思うんだけど、こちらもその都度検討していきましょう。

落:公募の話とは別に、さっきの趣味判断を越えて批評足りうる評価をしていく話もしたい。公募プログラムは、アジアの演劇を東京に集めることも目的だけれど、賞で順位を評価するための軸の共有が大切、ということを講評の映像で相馬千秋さん(F/Tプログラムディレクター)が言ってたから。

山崎:評価の軸については順位をつける以上、明確にする必要があるとは思っていて、アップされている講評会の動画ではそこがいまいち明確にはわからなかったのがよくなかったとは思う。評価の軸をきっぱりと打ち出してそれに沿ってきちんと評価するのがあるべき姿だとは思います。でもさらに言えば今度はその軸が適正かどうか…という話にもなり得るから話はややこしい。

落:評価軸に関しては、その作家自身に固有の問題意識がどう見えてくるか、その立ち上げ方がどの程度魅力的で成功しているかということから私は考えたいかな。だから、アワードについて「“反戦”というテーマにおいて普遍的」と言われてもあまり説得力を感じない。中国のリアリティと、日本の切実な問題は違うと思うから。

山崎:俺も、評価軸を立てるとすればねらいとその達成度で測るしかないと思う。環境が作家の問題意識に与える影響はもちろんあるけど、その環境の幅はさまざまに設定できるわけだし。ただ、当然のことだけど作品の背景についての理解の程度が作品の「ねらい」をどの程度読み取れるかに関わってくるし、作品が固有と普遍の間のどこに位置するかという問題もある。どちらがいいと言うわけでもなくね。個人的には単に固有/普遍なものではなくて、固有性の中に普遍性が、あるいは普遍性の中に固有性が見えるものが優れた芸術だと思ってるのだけど、その意味で、中国の作品はあんなに普遍に寄せなくても、つまり何でもかんでも詰め込まなくても普遍的たり得たとは思うけどね。

落:でも固有性の中に普遍性を見つける、ということで言っても日本人作家の持っている問題意識や生きづらさが薪伝実験劇団の作品で描かれたものよりも、比較した結果、軽んじられるべきではないよね。

山崎:だからそもそも比較不可能なんじゃないの?というのが個人的な見解。それぞれの作品の中での成否はあっても、それを他の作品と比較して優劣をつけるのはそもそも無理筋だと思う。

落:えー、じゃあどうしよう(苦笑)。でも、作品ごとの上演振り返りから始めてみよう。まずは日本勢から。

 


※各自、観劇したものは各演目名称の直後に○、未見の場合×を記した。

■柴田聡子『たのもしいむすめ』[構成 柴田聡子]
2013.11.26〜11.27@アサヒアートスクエア

[落 ○ 山崎 ×]


落:出演は柴田聡子ひとり。薄暗い舞台で、彼女がギターを抱えてしばらく弾き語りをしたあとに、30分くらいのポエトリーリーディングに似た朗読パフォーマンス。いわゆるライブ的な「今日はありがとう!」みたいなノリは全くなくて、暗い中にひとつだけ垂らした、舞台美術としての電球を揺らしたりして淡々と歌う感じ。終演後に彼女は「おみやげがあります。」とアナウンスして、出口でひとりずつに演目の内容が収録されたCDと、テクスト(日本語と英訳の両方)が印刷された紙の入った封筒を配った。朗読部分ですが、ギターのフレーズは短いものをずっと繰り返していて、テクストは一人暮らしの女の独白っぽいものから延々と広がって行く感じ。反復し続けるギターと、前に転がりつづけるテクストを聞いて、これは「反復する音楽の快楽」と「展開しつづけて同じ光景の出てこない戯曲」が併存している状態だと思った。どちらかというとここ数年の演劇って、その「反復」か「展開」の二つの間を葛藤していたように思うので、新鮮だった。

山崎:反復の程度にもよるけど、それは大ざっぱに言えばポップミュージックの基本形にも思うんだけどどうなのかな?それか話だけ聞くとたとえばチェルフィッチュ『三月の5日間』の語りにここで言う「反復と展開」に近いものがありそうだけどそれともまた違う?

落:柴田聡子のその語りは、歌詞(テクスト)にまったく繰り返す要素がなくて世界観がどこまでも転がって行く感じだったの。反復による畳み掛けも劇的な展開もない、音楽にも言葉にも寄りかからない、自由な状態が作られていて、聴いている観客にもその自由は与えられていた。聴いているだけで自動的に身体が乗ってしまうリズムが刻まれているのでもないので、ギターや柴田聡子の声から劇性を立ち上げることについては、観客に委ねられている部分が広いというかね。その彼女の語りによる一本の道がどこまでも続く感じが、暗いアートスクエアの情景とあいまって、広いというか深くてしみじみ良かったんだよね。

山崎:趣味判断とギリギリな気もするけど(笑)弾き語りの「語り」が「物語」を立ち上げる契機を孕んでいた、ということかしらん。ちなみにベケットの母国アイルランドには語りの伝統があって、ベケットの作品にひたすら語るだけのものが多いのはその影響だという話もある。これは余談ね。佐々木敦さんが、ライブをパフォーミングアーツのコンテクストに乗せるってのがコンテクストの操作で勝負してるって意味ではデュシャンみたいなもので、「おみやげ」のCDが上演台本みたいな機能を果たしてたんじゃないかって言ってて(佐々木敦(@sasakiatsushi)/2013年12月02日 - Twilog)、俺は柴田聡子は見られなかったけど、そういう風に見るならアワードとしてはなくはないかな、と思ってた。

 


■Q『いのちのちQⅡ』[作・演出 市原佐都子]
2013.11.29〜12.01@アサヒアートスクエア

 [落 ○ 山崎 ○ ]

 

落:チャンピオン犬のジョゼフィーヌとフィアンセ犬のマイクの話、回転寿司屋のマダムの話、ノリノミヤと名乗る犬とその飼い主の話など、盛りだくさんだったね。9月の「God save the Queen」(以下GsQ)でやってた『しーすーQ』のような異種交配の話もあったし、犬たちの近親交配とか、カラオケシーンとか舞台を走る自転車とか、強いエネルギーがあった。だけど私には、市原佐都子の扱いたいモチーフが散逸しているように感じた。表したいものがたくさんあることは分かるけれど、「取捨選択」は大切だと思う。全問題意識を平等に入れこみたくなってしまうフェアネスさと、それが出来てしまう賢さが窮屈そうだった。モチーフの全部を語っても、一つ一つのことが結局は分からない。Qに限らず、鳥公園(『カンロ』2013.10)やマームとジプシーの最新作(『モモノパノラマ』2013.11)でも生殖のモチーフは使われていて、それにまつわる一種の血なまぐささや、遺伝子を受け継いで行く先の未来への不安って今の日本の作家に結構蔓延しているように思う。

山崎:俺はQはGsQと映像しか見たことなかったから今までとの違いとかはわからないけど、盛り沢山だとは思ってもそんなに散漫だとは思わなかったんだよね。もちろんもう少しバランスは考える余地があったと思うけど。と言うのも異種交配とか扱ってるテーマからすると、作品の構成自体が歪なのも全然ありなんじゃないの?と思うからで。今回の舞台自体、パノラミックな構成で=横の移動でつながる3つの場所に、建物の二階という縦の移動と映像がコラージュされてて、その異物感が面白かった。メインに置かれた犬の話がインパクトあり過ぎるから回転寿司まわりのエピソードが余計に感じなくもないんだけど、削るよりむしろもっとぶつかる位強いものにしちゃった方が面白いんじゃないのかなー、と思う。モノローグとか反復誇張される動作とかを配置するQの手法自体が異種交配的だと思うのでテーマも異種交配しててもありなんじゃない?ってことです。サンプル(劇団)は境界が溶け合うイメージだけど、そうじゃなくて個々バラバラのまま交わる異種交配の可能性があるんじゃないかなー、と。作品としてはモチーフが一貫してた方がわかりやすいんだろうけど、そうじゃない面白さを感じました。

 

 

■子供鉅人『HELLO HELL!!!』[作・演出 益山貴司]
2013.11.28〜12.02@シアターグリーン

[落 ○ 山崎 × ]


落:これは、子供鉅人のいくつかあるパターンのうち「音楽劇」のジャンルでした。2012年の『幕末スープレックス』という音楽劇のほうがエンターテイメント的な面白さはあったけど、まあそれは趣味の話だね。演奏者を入れて30人以上のステージをマネジメントしきる、という演出の益山貴司の技量は素晴らしいと思った。物語は、死んでも何度でも甦ってしまう地獄で働き続ける亡者たちの話で、「何をしても死ねない怖さ」が物語の根底にあります。でも、たとえば子供を何度も殺して保険金を受け取りまくっている夫妻が無邪気にかわいく描かれてたり、色狂いの男が、騙した女を犯しながら、さらに刀で刺されたり、放射性廃棄物を地獄の倉庫に運ぶ描写が出て来たりして、そういうのを観ると益山さんの良心ってぶっ壊れてるんじゃないかと疑いたくなる。そんなのが陽気な音楽に乗せられてこちらも非常に楽しくなるものだから、空恐ろしく感じるんだよね。子供向けに猥雑なものを除去する前の、民話みたいなヴィヴィッドな怖さがある。

山崎:講評会で審査員のリー・イーナンさんが「ミュージカルという手法が商業主義や消費主義のテーマを表わしている」って言ってたけど、もう少し丁寧に言うと、商業演劇=資本主義消費社会の枠組みの中にあるミュージカルという形式で資本主義消費社会を戯画化して描くって手法自体が極めて批評的だということだよね。見た目の楽しさと内実の非道さという点で今回の作品の形式-内容のギャップがそのまま資本主義消費社会の矛盾を描くこととパラレルになってるんだと思う。

 

 


■sons wo:『野良猫の首輪』[作・演出 カゲヤマ気象台]
2013.12.04〜12.07@シアターグリーン

[落 ○ 山崎 ○ ]


落:これは、審査員の飴屋法水さんがとても推していたよね。「匿名的な何でも無い人だけど、交換不可能である、そこの間にまたがった表現というのが僕にとって重要で、それを感じました。言葉があるというよりは目の前のあたりで鳴っているような不思議な体験でした。」ということを言っていた。あのカクカクした不思議な発話が、人間の悲しみや不条理な世の中の虚しさを増幅させるということに成功するということもあると思うし、実際観たこともあるけど、今回は途中から同じ調子で語られる台詞が耳で捉えにくくなっちゃって、虚しさが増幅するのではなく、拡散してしまったように思う。音楽も、一番盛り上がるところでぷつっと切って、ある情緒が組み上がりそうになる瞬間にその枠が壊されるということが繰り返されたので、そのことによって、演出家が組もうとしていた枠自体が浮かび上がるような効果が上がればよかったけど完全に成功していたとは言えなかったな。あと、彫刻もちょっと謎だったね。…なんか、趣味判断から離れるってやってみると難しいな!

山崎:趣味判断というか、主観的なもので他者を説得することはかなり難しい。人によるじゃん、と言われたら反論できない。飴屋さんが講評会で言ってたのは「母国語をそうじゃないもののように扱う」というようなことだったけど、一言で言えばsons wo:の手法というのは言葉と身体を「異化」することなわけで、そういう意味ではものすごく大ざっぱに言えば地点と同じ方向性だと思う。地点と違うのは、sons wo:の「異化」がミニマム/ミニマルな表現の形をとってるから観客の注意を引き続けることが難しい、というとこなんじゃないかと思ってる。

落:今のミニマム/ミニマルの話、もうちょっと教えて。

山崎:地点の発話/身振りが強固な意志、あるいは役者の自発性に支えられているのに対して、sons wo:のそれはそのように見えない、というかおそらく役者の自意識みたいなものの発露を可能な限り抑え込む方向性の手法で、結果として役者の身体は身体自体や言葉に内在する微細な振動を拾いあげる「受信機」と化している、というのが今回の舞台を見ての印象で、『野良猫の首輪』の方向性が暗黒舞踏の目指す方向性と近似していると俺が感じた点なんだけど、ここまで来ると抽象的なイメージの話になっちゃって説得力に欠けるなあというのが個人的に思ってることで、だから自分がこれまで劇評を書くときはなるべく触れないようにしていた方向性の話。でも、暗黒舞踏みたいに身体/言葉を役者自身にとって「異化」しようとすると微細な感覚を研ぎ澄ませるというか「耳を澄ます」みたいなことが必要だし、だからこそ、これも飴屋さんが言ってたことだけど、観客の耳元で言葉=音が鳴ってるように聞こえるって事態が起き得るのだと思います。まあしかし、やはり身体の話を説得的に語るのは難しいよ。俺には役者の身体は受信機のように見えました。身体/言葉が疎外されている、あるいは身体/言葉から疎外されている状態が戯曲の内容(地球からの放逐)とマッチしてて、今回のsons wo: でよかったのはそこだと思う。放逐されたもの(=野良猫)にそれでも残るもの(=首輪)は何なのかを探る試み。フリーな客席と彫刻もその一環と見ることは可能だと思う。大きな二つの彫刻はそれぞれ鉛筆と矢印を彫刻として作り直したもので、その作り直しという作業を「残るもの」を問う試みだと見なすことはできる。あまり効果的だったとは思えないけど…

落:「身体と言葉の放逐が、戯曲の内容とマッチしている」のはよい指摘だけれど、そう思うと、身体と言葉だけでちゃんと実現出来てることであって、客席・舞台の反転とか彫刻とかのアイディアはほとんどいらなかったんじゃないか、というのが明らかになるわね。

山崎:俺があの作品はあまりうまくいってないと思ったのは主にそこが理由。

落:『野良猫の首輪』というのは、寄る辺なさの底に残るもの、という意味の詩的にして秀逸なタイトルですね。

山崎:残ってしまうもの、という印象かな。首輪だし。


 

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あたらしい星座をなぞる指先:PortB『東京ヘテロトピア』

 官能をはたらかせて演劇を観た経験が、実はあまりない。悪い癖だとは思いながら、提示されるそれの表象するもの、意味を示す記号、言葉をつい追いかけてしまい勝ちになる。記号に変換できないもの、たとえば気配や嗅覚、あるいは味覚のほうにこそ、じつはひとの気分や心持ちを変えさせる力がよほどあるにもかかわらずだ。

 『東京ヘテロトピア』はスタート地点で受けとったガイドブックを頼りに、東京各所に指定されたスポットを観客がめぐる公演である。演出された役者は登場しない。スポットそれぞれに FMトランスミッターが設置されて、観客はスポット毎に異なるテクストが異なる人物によって朗読されるのを、同じくスタート地点で渡される携帯ラジオ機で聴取する。スポットは民族料理店や劇場、学生寮などで、ガイドブックの表現に従えば「東京の中の“アジア”」である。アクセスが困難なスポットはあまりない。曜日や時間帯の制限によって条件が厳しい場所もあるが全体をみればむしろ、一個所や二個所、訪れたことがあるような観客も少なくないかもしれない。

 それぞれのスポットがどのような物語を帯びているのかは、ガイドブックであらかじめある程度説明されている。たとえば周恩来が通ったという中華料理店や、アジア関係書物を百万冊集めた私設図書館、日曜日毎に信者の集う教会。だから観客は事前にそれらの情報を知っているだろうし、それらを踏まえてラジオから流れる朗読=その場所に関わるもうひとつの物語を聴くだろう(仮に観客がそれを事前に知らなかったとしても、ラジオから語られるのがその場所そのものの物語ではなく、その場所に交差するよう書かれた物語だということはわかるはずだ)。

 なかでも、やはり、民族料理店に言及しなければならない。例えばカンボジア料理店「アンコール・ワット」では、おすすめのセットで出てくる料理がことごとく美味しい。これにはたいへん満足した。けれどそれは、日本人が美味しく食べられる様にカンボジア本来の味付けから変えてあるからなのだ(このことはテクストでも語られる)。またネパール料理店「モモ」ではネパール人客たちが、店が豊富に取り揃えたネパールビールではなく、アサヒの大瓶をテーブルに置いて談笑している。日本のビールのほうが安価に飲めるから、手が出やすいのだ。異郷=「東京の中のアジア」のつもりで訪れた店が、けれど、東京と接して転訛した「東京の中の“アジア”」だったことに気づかされる。

 東京は過剰な都市である。情報としても質量としても多くのものが集まりすぎていて、ひとりの人間がそのすべてを把握することはできないし、過去の痕跡はすぐに新しいものに埋もれてしまう。だから東京に暮らす私たちが見ているのはつねに、いわば(自分にとっての)東京の射影=自分が把握できるところまでを選んで整形するフィルタを通したそれである。『東京ヘテロトピア』ではおそらく、おおよその観客の日常の射影から漏れてしまう“アジア”が選ばれている。だから観客は同じ東京の、けれど日常とは異なるレイヤに存在する異郷を体験してくることができる。

 しかし観賞を進めるうちに明らかになるのは、異郷は観客の日常から独立しているだけで、東京から独立しているのではないこと=あくまで観客と同じレイヤに存在していることだ。異郷もまた東京のうえに、地続きに存在している。

 観客と異郷の間にある距離は一見、埋めがたい無限遠=レイヤの違いであるかのように見える。けれどそこには実は定義できる距離があって、ならば、異郷は日常から歩いて訪ねられる場所にある。東京訛りの“アジア”がそのことを示唆する。アジアに東京が交雑したその場所で、交雑した食べものを観客が口にする。観客と異郷とは『東京ヘテロトピア』を、また食べるという行為を通して、すこしフェアな次元での出会いを経験することになる(なぜならそれは賞味するということでもあり、ある種のリスクを引き受けたうえで何かを体に取り入れるということでもあるからだ)。スポットは異郷と観客との距離をとらえ直す場所として演出されていたのだ。

 だから国際救援センター跡は特にすばらしかった。ベトナム難民を収容したその施設がかつてあったという、まるで人気のない大井埠頭へ品川駅からバスで揺られていく距離感がそのまま、テクストのなかで主人公が実感する元ベトナム難民との壁=距離感と重なるからだ。その距離が断絶を示すものでないことを確かめたくて、帰りは立会川駅まで歩いた。

 観客に配布されたラジオ機には「同調ランプ」がついていて、周囲のラジオ電波をつかまえると光るようになっている。観客たちが各スポットを訪ねてテクストの朗読を聴いているあいだ、あるいは『東京ヘテロトピア』を離れて一般のラジオ番組に耳を傾けるあいだ、赤く点っていたはずだ。高山明は11月20日のトークで、「星座を星座として見いだす瞬間に立ちあう」という意味のことを口にしていた。周波数の同調を示す小さなランプは、一見関わりないように見える異郷同士を、あるいは異郷と日常を、線=想像力でつないで新たな輪郭を見いだすような営みを待って輝いていたのかもしれない。

 

斉島明(さいとう あきら)

1985年生まれ。東京都三多摩出身、東京都新宿区在住。出版社勤務。PortB『完全避難マニュアル 東京版』から演劇を観はじめました。東京のことに興味があります。@

■ワンダーランド寄稿 http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/saito-akira/

■ブログ fuzzy dialogue http://d.hatena.ne.jp/fuzzkey/

■高山明氏(PortB)インタビュー:ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」02に掲載

銃殺刑の上演 −地点『ファッツァー』

 本作は京都にできた劇団のアトリエ「アンダースロー」での上演となる。舞台は、古い住居のはがれた外装のようにくすんだ緑色の壁の前に人、一人通れる分ほどのスペースが水平方向に広がる。上手には不揃いなドラムセット、バスドラムの穴の上には「Fatzer」と書かれている。その前に同じくらいの細さの溝、溝の中はすべて鏡ばりだ。天井からコードのつながった豆電球がばらばらに吊るされて、たるんだ大量のコードが蔓のように役者の頭上あたりの高さに垂れ下がる。

 地点による『ファッツァー』は元々、1926年〜1930年に書けてブレヒトが書いた『ファッツァー』という戯曲の断片をハイナー・ミュラーが『エゴイスト、ヨハン・ファッツァーの没落』として戯曲化したものだ。劇場で販売されたプログラムから戯曲の概要を参照する。「第一次大戦の開始から3年目、脱走を決意した4人の兵士は、そのうちの一人の妻の住居に潜伏し、革命を待つ。4人のうちの一人であった兵士、ファッツァーは食料の調達に怠慢を計り、潜伏先の妻を誘惑し、4人の秩序を乱す。残りの3人はファッツァーの殺害を思い立つ。」ブレヒトによる執筆の動機は、第一次大戦後のワイマール共和国時代のドイツに広がった閉塞感であった。ミュラーは東西ドイツ統一後の国に蔓延した社会的は雰囲気にブレヒトのテーマを重ねあわせて90年代の初めにこの戯曲を発表した。劇を見ただけでは粗筋はほとんど分からない。むしろ粗筋と、上演の両方に相互補完されて、やっと初めて全体像がつかめる印象だ。

 音響が印象的であった。客席の両脇に設置されたスピーカーから発される空間現代による複数の音色の層を持った音(複数の楽器を同時に重ねて鳴らすことでつくられた単音)は独特だ。一発、一発が大音量で放たれるそれを、役者たちがよけるようにして喋る。彼らは、頭の後ろに手を回したり、両手を上げたりして降伏を連想させるようなポーズをしたまま、周囲を神経質そうにうかがう。その様子はまるで、銃殺刑に並ぶ脱走兵と、そこに響く銃声そのものである。

 とにかく私はこの演目を恰好いいと感じた。それは一つ一つの演出手法に感じる作り手側の迷いのなさ、揺るぎのなさに理由があると思われる。劇中で提示される一つ一つの効果、演技について、一つ残らず提示する側で意図の共有ができているように、見ていて感じられた。複雑な主題と構成を、単純な音、一枚の画の中にしっかりとこめ、言葉では一言で説明できないようなことを、視覚と聴覚を通じてならば一瞬で伝えられるように仕上げられている。構造は、余分な隙間なく、かっちりと組まれているという印象を感じさせると同時に、それだけの演目を組み立てるにはかなり贅沢に時間を使いながら本番と同じ状況下での稽古を行わなければならないのだろうとも感じた。

 パンフレットに演出の三浦氏からの印象的なコメントがある。「アンダー・スローは、あくまで稽古場として作った」。地点は固定の劇団員と演出家が自分の団体のレパートリーとしての演目をいくつも保有している。この上演方法に本番も上演できる稽古場が加われば、作り手の側にとってこれほど贅沢な環境はなかなかないだろう。地点の演目を格好よいと思わせるその恰好とは、恰好の悪いものの排除に手間ひまをかけた結果だ。これは、贅沢な制作環境の賜物である。『ファッツァー』は、演劇作品を洗練させる重要な材料が手法や個々の技術よりもむしろそれが作られる制作環境にかなりの比重があるとあらためて感じさせる作品だった。

 

参考:

「ブレヒト/ミュラーの『ファッツァー』敗北者の眼差し」市川明 、上演プログラムより

 

伊藤 元晴(いとう もとはる)

1990生まれ、京都府京都市在住。大学生。象牙の空港(http://ivoryterminal.bufsiz.jp/)主宰。

http://pac.hatenablog.jp/entry/2013/11/09/140208

〈旅〉から〈遠足〉へ −サンプル『永い遠足』

1,はじめに 『永い遠足』周辺のテクストから

 サンプル『永い遠足』は『オイディプス王』をモチーフとして用いた作品であるが、その『オイディプス王』の物語における〈旅〉が問題とされる時、それは英語圏においては一般的に「journey」という語によって語られる。そして「trip」という語は、ほぼ確実に用いられない。例えば『Oxford English Dictionary』において「a journey or excursion, especially for pleasure」と説明されているように、「trip」という語には小旅行、気晴らしといったイメージが付随していて、『オイディプス王』に描かれた劇的な、運命的な〈旅〉にはそぐわないのがその理由だ。まして「field trip」、〈遠足〉などといった言葉が使われるはずもない。

 松井周作・演出のサンプル『永い遠足』について語る本稿を、「journey」と「field trip」、〈旅〉と〈遠足〉の差異から書き始めたのは、サンプルのウェブサイトに掲載されている『永い遠足』のメイキング記事に、以下のような記述があるためである。

新潟入りした時点では『永い遠足』というタイトルも確か『グレイトジャーニー』というような仮タイトルで、F/Tでの上演を前提に全て視野に入れていたわけではありませんでした。

連夜、旧上郷中学校のコンピュータ教室で打合せをする中で「永遠」と「遠足」を掛けた『永い遠足』というタイトルを思いついた、というような具合です。

「『遠足の練習』から『永い遠足』への旅(2)」

『遠足の練習』は『永い遠足』に先立って書かれ、新潟で上演された作品であるが、ここで注目したいのはもちろん、『永い遠足』というタイトルの前に『グレイトジャーニー』という仮タイトルがあったことである。『グレイトジャーニー』から『永い遠足』へ、「great journey」から「long field trip」へ――この移行は、単にタイトルの変更というだけに留まらず、松井周の思想を表すものともなっているだろう。

一番嫌なのは、脱ぎ着ができない物語を長い間強いられるということで、そういうイデオロギーに対しては、ちゃんと対抗したいなと。

小泉明郎・松井周「フィクションの反転力」p.7、雑誌『サンプル』vol.1、サンプル)

これは雑誌『サンプル』第一号に掲載されている、「フィクションの反転力」と題された松井周・小泉明郎の対談における松井の言葉である。彼は会場で配布されたパンフレットの中ではこの「物語」を「運命」と並べ、「誰かが勝手に作って、他人に貼付けているものなんじゃないか」と述べている。『オイディプス王』の悲劇的な「運命」「物語」は松井の目には、宿命的な、絶対的なものではなく、ただ押し付けられ無理矢理に着せられている、本来ならば脱ぐことのできるはずのものとして映るのだ。

 貼り付けられたものでありながら絶対視されてしまう「運命」「物語」を、着脱可能な「(仮)」の「物語」として相対化していく。そこに、タイトルにおける〈旅〉から〈遠足〉への移行が重なっている。『永い遠足』は、「物語」を相対化する試みなのだ。

 次章から、その試みがどのように行われたかについて、まず形式から、次に物語内容から考えていく。

 

2,形式において――『永い遠足』における「あらすじ」と演劇の原理

 試みは、まず形式において、演じられている役(「虚構」)と舞台上に現前している肉体・物体(「現実」)の違和、という演劇の原理を利用して行われる。『永い遠足』はピーターという名のネズミの役を与えられた男が「あらすじ」を語るところから始められるのだが、そこで語られるのは、まず『オイディプス王』の「あらすじ」であり、次に、荷台にあたる場所の左右に家庭の居間を模してテーブルや椅子の載せられた板を取り付け、舞台上を移動することで舞台転換装置となる軽トラックそのものの(どこが製造し、どのようにしてサンプルの手に渡ったかといった)「あらすじ」、ピーターを演じる奥田洋平の個人的な(「生まれて、三十七年…」といった)「あらすじ」である。その次にようやく、『永い遠足』の物語内容のこれまでの「あらすじ」、登場人物それぞれの紹介がされ、ピーター役の男は自身を「実験用のネズミのうちの一匹」と紹介し、物語は始まる。

 『永い遠足』の物語内容が演じられ始める前に語られた、軽トラックとピーター役の男の「あらすじ」は、『永い遠足』の物語内容という「虚構」に対して、「現実」に属するものである。これらを舞台上で語ってしまうことは、「虚構」が「虚構」であることを隠蔽しより「リアル」に見せようとするという演劇の歴史的な努力を放棄しているようにも見えるが、しかし実際には物語が始まれば奥田洋平はピーターと呼ばれるネズミに、それぞれの役者たちはそれぞれの役として認識されてしまうし、軽トラックは家庭の居間になり、青いビニールシートは海になり、ダンボールは押入れになる。かつて体育館であってその様相を残しているにしすがも創造舎という劇場は、『永い遠足』が始まれば体育館でも劇場でもなく、居間や海辺といった場所になる。実在の肉体を持つ人間に、舞台上に配置されている日常的な道具に、舞台に、違う意味(「役割」)を与えることが演劇では許されている。それがすんなりと受け入れられるのだ。

 このことを言い換えれば、演劇においては「物語」の脱ぎ着が許されている・可能である、となるだろう。『永い遠足』冒頭の「あらすじ」のくだりは、「現実」に「虚構」の「物語」を着せる瞬間を見せることで、この可能性を露出するものとしてあった。演劇の原理としての着脱可能性、それは「物語」を絶対的なものとして表現してきた演劇においては隠蔽されてきたものだ。それをあえて曝け出すことで、脱着可能な相対的なものとしての「物語」を、『永い遠足』は提示した。

 

3,物語内容において――着脱可能な「物語」、しかし越えられない境界線

 演劇という芸術形式は、原理的に「物語」の着脱可能性を孕む。このことを『永い遠足』は露わにしている。その『永い遠足』の物語内容において描かれているのも、着たり脱いだりすることのできる相対化された「物語」に見える。

 『永い遠足』の物語内容と登場人物たちを、単純化して紹介しよう。実験用ネズミの世話をする職についているノブオは、実験で生み出された人語を話すネズミ・ピーター(後に「ネズミ人間」であると説明される)と暮らしている。ノブオには、物語内容の中での現在では既に亡くなっており、回想のような、幽霊のような形で登場する母・チヨコがいて、さらに彼女との近親相姦によって生まれた娘・アイカがいるのだが、しかし彼は自身の近親相姦も娘の存在も知らない(忘れている)。アイカはタケフミとキリコという夫婦のもとで成長したが、家族への反発から、家を出る。タケフミとキリコは花屋を営む桃太郎と共にアイカを探す旅に出、その旅の中で、桃太郎の提案からアイカを取り戻すためにタケフミは母性を手に入れようと女装(女体化?)し、キリコは笑いを取りもどし、犬のように四足で歩くようにもなる。一方、アイカの友人でもあり機械から機械へと渡り歩くデジタル生命・マネキンに、ノブオに娘がいることを知らされたピーターは、マネキンによって禁じられたにも関わらずノブオにそれを伝える。ノブオは買春の形で娘と接近し、「プレイ」として父娘の関係を作り始めるが、桃太郎、タケフミとキリコたちに発見される。ノブオはアイカ(この時、彼女は既に「アイカ」という名をマネキンに譲っており、「もうアイカじゃない」と語るのだが)を素直に手放そうとし、しかし持ち歩いていた母の遺骨で目を突き刺し、失明する。最後のシーンでは、失明したノブオの手をアイカが引き、二人で歩いている。奥の扉から舞台に表れた筒状の、半透明の白いビニールの膜の向こう側にはピーターとマネキンがいる。ノブオはピーターから最先端医療を用いて作られた目玉をもらうが、ノブオはそれをどうすることもできない。そのままノブオとアイカは去っていき、物語は終わる。

 タケフミとキリコは、それまで家族という「物語」の中で担っていた役割を脱ぎ捨てて、別人のようになる。桃太郎を名乗る花屋の男は、「じゃあ、俺のどのへんが桃太郎だ?…どのへんが桃太郎なんだよ!」「桃太郎なんだよ…俺を見て、お前らがそう思えばそうなるんだよ」と語る。アイカは家を出て、さらに名を捨てることで、家族の「物語」、アイカの「物語」を脱ぐ(「アイカやめる。私、脱ぐ、アイカ。」とアイカは語る)。父親像や妻像、家族、名前さえも、相対化可能・着脱可能な「物語」なのだ。

 しかし、タケフミ、キリコ、桃太郎といった、今までの「物語」を脱ぎ、新たな「物語」を着た彼らは、ついにはアイカを取り戻せないし、(役者の肉体的にも)男性でありながら女装したタケフミや四足歩行をし「わん」と叫ぶキリコの姿は滑稽で、ノブオは『オイディプス王』から継承された「物語」に抗えずに目を潰し、最先端医療をもってしても、その視力は回復されない。実験から生まれ違う国へと旅立つピーターや、機械から機械へと渡り歩くデジタル生命のマネキンと比べ、物語の中の人間たちは、どうも手放しで肯定される状況にはないように見えるのも、事実である。

 また、脱ぐことのできなかった「物語」も存在する。最も大きなもので、それはオイディプス王に重ねられ近親相姦を犯したことを知ったノブオによる、「運命」とも呼べてしまうような目潰しである。

 境界線、といった言葉に連なる表現が『永い遠足』には度々表れる。『永い遠足』には海辺に張られた、アイカの越えられなかったバリケードが登場するが、それをマネキンが「境界線」と呼ぶ(マネキン自身は越えられるのだが)し、桃太郎はタケフミ・キリコに「一線を越えます」と語る。境界線を越えるということは、少なくとも桃太郎の用法においては、「物語」を脱ぐ・別の「物語」を着ることと同じ意味を持つのだろう。「一線を越えます」の言葉どおりにタケフミ・キリコは別の「物語」を着たのだ。しかし、越えられない境界線、それを象徴するかのように、白い半透明の筒状になった膜、ピーターとマネキンという「人外」の者と暗闇を彷徨するノブオ・アイカを隔てる異様な存在感を持った膜を、舞台を奥から貫くような形で『永い遠足』は最後に出現させた。

 『永い遠足』において「物語」は、形式においても物語内容においても着脱可能なものであった。それは松井周が雑誌やパンフレットで語っていたこととも重なる。しかし、彼の言説を越えるものが、『永い遠足』には確かに描かれている。

 

4,「物語」の相対化以後も残るもの

 「great journey」から「long field trip」へ――それは、「運命」「物語」などと呼ばれ押し付けられ続けるものを、着脱可能な、演劇的なものとして相対化する移行であった。絶対的なものとして捉えられ続けてきた「物語」、〈旅〉が、着脱可能・相対的な「物語」、〈遠足〉として捉え直される。しかし、それでも越えられない境界線、最先端医療をもってしても抗えない「物語」を『永い遠足』は残した。

 ノブオとアイカの脱ぎ捨てられなかった「物語」について、考えてみたい。再びパンフレットから、松井の言葉を引く。

iPS細胞は、これまで受精卵からでなくては作れなかった万能細胞を人工的に作り出したものですが、その登場は人間のオリジンが必ずしも男と女であるとは言いきれなくなったということを意味していると思います。僕はこの話を聞いて、すごい開放感を味わったんですよね。男と女がいて、子どもがいて「家族」なんだという固定観念を、現実が裏切った。最近はブタの体内で人間の内蔵を作る実験も進んでいるそうですが、そこでも人間とブタの境界線やイメージは壊されているわけで、そういう話にはすごく快感を覚えます。

(『永い遠足』公演パンフレット「インタビュー:松井 周『物語』を乗り換える、(仮)の可能性」p.4)

「人間とブタの境界線」をも破壊する最先端医療は、『永い遠足』の中ではさらに進んで、実際に人間の目玉を作ることもできるし、「ネズミ、ブタ、サル、ヒトのクォーター」であるピーターのような存在をも生み出している。しかし、『永い遠足』の最後に現れたのは、そのような近未来的な技術をもってしてもなお越えられない境界線、「人外」の者だけがその向こう側に行ける白い膜である。桃太郎の言葉のように、境界線を越えることが「物語」を着脱することと同義であるとすれば、ノブオが越えられなかったその境界線は彼が『オイディプス王』的な自身の「物語」を脱げなかったことを象徴していると読むこともできる。

 白い膜の現れたその最後の場面には、壮大な大音量の音楽(「諦念プシガンガ」であった)と共に醸しだされる開放感があった。それは相対化された「物語」を脱ぎ着し渡り歩いていく開放感であるだろう。しかし、音楽が終わった後の最後の台詞、目玉を付け替えることのできないノブオの「俺はこれをどうしたらいいんだ?」という台詞には、ある種の絶望感、それは言い過ぎだとしても、開放感からは程遠い、心に引っかかるものが確かにあった。

 家族、名前といった着脱可能な「物語」をタイトルの〈遠足〉に結びつければ、〈永い〉は、この心に引っかかるものの原因であろう越えられない境界線、着脱できない「物語」に結びつけられる。最初に引用した『永い遠足』のメイキング記事から読み取れるように、〈永い〉は単純に「long」の意味ではなく、「永遠」から来ている言葉である。「物語」を相対化し、着脱可能な〈遠足〉として捉えてもなお、「永遠」に脱ぐことのできない「物語」、〈永い遠足〉。

 それは、人間に関して言えばだが、自己同一性といった名で呼ばれるものなのではないか、と私は考える。

 自己同一性という名の「物語」の輪郭を定めることは、現状では不可能であろう。自己同一性とは、そもそも多様な使われ方をされる概念であり、ここでは、ある者がある者であり続けるその連続性の根拠といった意味で用いるが、現代、来る近未来において、臓器移植やiPS細胞といった技術によって、自己同一性の境界はさらに侵され続ける。身体のある部品を移植されても、それがブタから来たものであっても、ある人はある人としての同一性を保つだろう。しかし仮に脳が移植可能になればどうなる? 脳以外のすべてを交換したら? いや、医療に関わらなくとも、例えばある日を境に名前が変わっても、国籍が変わっても、ある者はある者であり続けるだろう。しかし、性格ががらりと変わってしまったとき、ある者はある者であり続けていると言えるだろうか? 演劇という「虚構」においてある役者を別の登場人物として見てしまうような我々が、まして「現実」において、ある人が何をもってその人であるのかを言うことは、不可能である。例えば奥田洋平という「ある者」を、『永い遠足』を観る者はピーターとして見、奥田洋平とは見ない。しかし、彼は確かに普段は奥田洋平という名(「物語」)を着ている「ある者」であって、彼はその「ある者」であり続けている。その境界線(限界、と言い換えればわかりやすいだろうか?)は確かに存在するはずだ。演劇という芸術形式の中で「物語」を脱ぎ着するように、「物語」を相対的なものとして捉えてもなお、ある者がある者であり続ける、その自己同一性の「物語」がメタなものとして残る。

 自己同一性という脱げない「物語」、越えられない境界線。『永い遠足』において、アイカの越えられなかったバリケードの向こう側には「身動きのできない」「骨を晒した」と語られる、おそらく死体があった。その境界線は、人間とデジタル生命を分けるものであると同時に、生と死の境界線でもあるようだ。人間である限り、例えば死ぬまで越えられない境界線、ある者がある者である限り脱ぐことのできない「物語」が、「物語」の相対化の後も残る。そのことを暗喩するかのように、『オイディプス王』の「物語」に逆らえずノブオは着脱可能なはずの目玉を交換することができない。そしてタイトルにも、「journey」すなわち〈旅〉から「field trip」〈遠足〉への移行がありながら、あるいは〈グレイト〉以上に絶対的な、「永遠」を意味する〈永い〉が付されている。相対化された〈遠足〉的「物語」の中で、「永遠」のもの。〈永い遠足〉というタイトルは、それを指し示しているはずだ。

 

5,ある者がある者であり続ける、その美しさ

 強いられる脱ぎ着できない「物語」への問いは、形式においても物語内容においても「物語」を相対化する『永い遠足』という作品になり、しかしそこには「物語」の相対化の末になお残り続ける「物語」、受け入れざるを得ない「物語」が書き込まれた。その越えられない境界線を前にしたノブオの台詞に対して、絶望感、と私は述べた。しかし、この「永遠」の「物語」、〈永い遠足〉は、決してネガティブにのみ捉えるべきものではないだろう。

 そもそも、『永い遠足』の物語内容の外側から「あらすじ」を語れたのはピーターだけであり、舞台に現れぬままマイクを使って台詞を語れたのはマネキンだけであった。「人外」に対する「人間」たちは役者の肉体を離れられないし、『永い遠足』という「物語」を脱ぐことはできていない。「人間」たちは、決して『永い遠足』の外側にいられない。「人間」を人間に、『永い遠足』を〈永い遠足〉に置き換えても、同じことが言えるのではないだろうか。私たち人間には脱ぐことのできない、いや脱いでしまっては「私」でなくなってしまうような「物語」がある。「永遠」に押し付けられる・ある者であり続ける限り受け入れざるを得ない〈永い遠足〉が存在する。しかしそれは悲しくも、美しい境界線であるように私は思うのだ。アイカがアイカの名を捨てたことを認めつつ、「私にとってはアイカだ」「おかげで、ママのちょっと違った姿も見ることができて」と語るタケフミの美しさ。家族も名も捨てて、しかしノブオを導くアイカの美しさ。それは、「物語」を脱ぎ着しながらしかしある者であり続ける「私」と、ある者であり続ける「あなた」の関係の中で生じる・関係そのものの美しさに他ならない。

 

※『永い遠足』の台詞は「11月12日付けのもの」として販売されていた上演台本のものであり、実際の上演における台詞とは異なる可能性もあるが、少なくとも引用箇所については私の実際に聞いたものと意味内容に差がないと判断したため、それに拠った。

 

神川 達彦(かみかわ たつひこ)

1992年生、早稲田大学文学部三年で日本現代文学を専攻。

虚しい廃墟 −『石のような水』

 この演目はソ連の映画監督、アンドレイ・タルコフスキーの2本の映画を元に構成される。一本は1979年製作の作品、『ストーカー』。隕石の墜落によって、その墜落地帯の周辺に出現した特殊な地区「ゾーン」。その中心には「部屋」と呼ばれる場所があり、ここにたどり着いた者は、自らの願いを叶えることができる。しかし、この願いの効能というのはアラジンの魔法のランプのように、本人が申し出た願いがそのまま叶えられるといったものではなく、本人さえ知らないその人の潜在的な欲求が叶うというかなりスピリチュアルなものだ。主人公の男は、このゾーンへの案内人「ストーカー」という職を生業にしている。放射能汚染の寓意を思わせる「ゾーン」であるが、チェルノブイリ事故の10年前に製作された映画というのが興味深い。もう一本は1972年製作の『惑星ソラリス』。惑星ソラリスを監視する国際宇宙ステーションに派遣された心理学者の主人公は、ステーションのなかで、彼の亡くなった妻をはじめとする様々な幻覚と出会う。その幻覚は、ソラリスを覆う「ソラリスの海」と呼ばれる謎の物質によってつくり出されるものだとわかる。幻覚をつくり出す正体不明の物質と人間との交流を描く、大変抽象度の高い映画だ。

 先に挙げたその両方がSF映画と呼べるものだ。ここで用いられるSFの設定は、現実の空間とはまた別の(パラレルとも呼べる)精神世界を想定したものだろう。抽象的な概念を通して出会う精神的な「向こう側」の世界という感覚は、彼岸と此岸の概念を連想させる。もう一つ、両者の共通点としてあげたい項目がある。それは今回の劇の上演、タルコフスキーを題材にした劇を現代の日本で上演することにもかかわる。核の問題だ。『惑星ソラリス』の小さなエピソードとして広島の原爆への言及がなされる。『ストーカー』では前述の通り、「ゾーン」そのものが現代ではチェルノブイリを連想させる。また劇の途中にあらわれる木のモチーフにも注目したい。タルコフスキーの別の映画『サクリファイス』にもよく似た木が登用する。これもまた、その映画の主人公の老人が、日本での原爆投下に追悼を意をこめて植えたという設定が組み込まれている。しかし、今回の上演では、表象やモチーフから連想された時事的な問題が劇中で直接取り上げられるようなことはなかった。

 『石のような水』は『ストーカー』同様の「ゾーン」が出現した東京を舞台に、実質の「ストーカー」業と会社員を兼業する主人公の男、彼を中心に彼の会社の同僚、彼の妻、その姉、彼女の同居人である映画監督といったプチブルの都市生活者をめぐるメロドラマとして仕上がっている。舞台美術はとても魅力的だった。石の表面が作るオブジェのような大小様々の階段が左右にゆるやかなシンメトリーを左右方向に形成し、照明と表面のくぼみが作る影の些細な変化だけで、風景が都市に、空に、遺跡に、寝室に、街路にと、万華鏡のように移り変わる。移り変わる景色の中で登場人物のエピソードをバラバラの視点から断片的に紡ぐ群像劇は、それこそ映画のシーンの羅列を思わせる。

 この劇における「ゾーン」の設定は「ソラリス」と「ストーカー」の設定が折衷されている。「ゾーン」の奥にある「部屋」にたどり着いた人は、その「部屋」の外に降る雨水を牛乳瓶に拾って飲むと、飲む間に「その人が本当に会いたい人に会っている光景を目撃できる」。しかも、その光景は「その人が水を飲んでいる間に『ゾーン』の外の現実の世界で実際に起こっている」というものだ。観念的で、にわかには理解しがたい設定だが、劇中の現実世界である都市からは「ゾーン」が異世界であるように描かれること、それに加わる上記の「ゾーン」の機能が、まるで幽体離脱のような仕方で人間が同時に複数の場所に存在しうるような霊的な世界を連想させる。都市の生活とゾーンの中の神秘的な空間の持つ彼岸と此岸を連想させるような関係は興味深い。しかし、私は劇中の都市生活に、実感の伴った興味を持つことができなかった。メロドラマとして描かれる都市生活者の人物像はどこか古くさく、時間とお金を持て余し、自己陶酔気味に凝った台詞を喋るプチブルという印象を受ける。その中では、「ゾーン」の機能も「精神世界」としての内省的なものばかり、印象が強くなる。

 抽象的な世界観をはらみながら、緻密に構成された都市生活者のメロドラマとして、それが移り変わる美しい情景と共に醸成されていくことも含め、作品自体はとてもよくできている、と感じた。しかし同時に、整った作品だと感じれば感じるほど、安全な場所で綺麗なものがつくられていること、否定的な意味での「高尚な」見世物に収まろうとしている感も強まった。背景には明らかに時事問題を孕んでいると感じさせるということが、どんどん作品のネックになっていく。作品が、メロドラマとしてそれが精緻に出来上がれば出来上がるほど内省的に、現実とはかけ離れたどこか遠くの物語になってしまう。切実な現実の問題がまるで実感の伴わないきれいなものの中だけで語られる光景、それをただ傍観するだけの孤独な体験に私はあまりいい印象を持つことはできなかった。

 

伊藤 元晴(いとう もとはる)

1990生まれ、京都府京都市在住。大学生。象牙の空港(http://ivoryterminal.bufsiz.jp/)主宰。

http://pac.hatenablog.jp/entry/2013/11/09/140208