Perfoming Arts Critics 2013

若手の書き手によるレビューブログです。2013年11月から12月に上演される舞台芸術作品についての批評を中心に掲載していきます。

空気を読む―小沢剛『光のない。(プロローグ?)』

小沢剛の演出・美術による『光のない。(プロローグ?)』。本公演は、開幕してからの評判が客を呼び、連日当日券が売り切れ追加公演まで行う事態となった。私自身、「ネタばれになるから詳しくは言えないけど、とにかくこれは行くべき」という声を四方から聞き、“行こうかな”という気持ちが“絶対行く!”に変わったのだった。

劇全体の概要は以下のようなものだ。観客は開演時間までロビーで待機しており、時間になると劇場内へ入る扉が開かれる。場内には天井から垂れ下がる黒布で通路が作られており、美術展のように小沢による作品が展示されている。私は、入ってすぐのところにある大きな絵をしばし眺めた後、通路を歩きながら作品を観てまわる列に加わった。絵画、積み重ねられたダンボール箱、並べられた小瓶など、様々な作品があるが、それら全てにイェリネクによる戯曲「光のない。(プロローグ?)」の一部が記されている。通路の一番奥に展示されていた岩まで辿りついてしまい、“これで終わりか…、せっかくだからもう1周しようか”などと思いながら、前の人に続いて逆周りで歩いていると、入口の方でなにやらバタバタという足音がして、え?え?という、客のざわめきが起きた。“終わりじゃなかった、なんか起きてる!”と、そのざわめきの方へと向かおうとすると、走り回るゴリラが姿を現し、岩の上でばったり倒れる。すると、展示作品たちが上へ引き揚げられ、通路を作っていた黒布も姿を消す。ゴリラと、広い空間、新たに降りてきた機械仕掛けで演奏されるリコーダーだけが残る。ゴリラは起き上がり再度動き出すと、穴の中から牛の死体を引きずり出す。それを何度か繰り返したのち、入口側に集まった観客の前に白い幕が現れ、それをスクリーンとして、東日本大震災被災地と思しき海でゆったりと優美にフラダンスを踊る人(顔だけはゴリラの被り物)の映像が流れる。スクリーンが上がると、映像の中と同じようにゴリラの被り物をしてフラダンスを踊る女性がおり、その奥には最初と同じように作品が展示されている。女性に導かれるように以前岩があった奥の方へ行くと、青いビニールシートにくるまれたものがたくさんある。その山の中に身を投げ出し、悔しそうに拳を叩きつけながら沈んでいくゴリラ。背景には「光のない。(プロローグ?)」の文字。拍手もないまま、ひとり、またひとり、と観客は立ち去り、私もその場を後にした。

さて、振り返ってみてなのだが、観客席がなく主体的に動ける空間だったにも関わらず私はあまり自由には行動しなかったように思う。流れに乗って展示作品を見て歩き、小瓶の前では皆が目線を低くしているので同じようにし、岩のところでは裏側に回り込んで顔を近づけているのでそれに倣った。どちらの場合も、そうすると刻まれた文字が読みやすくなるようだった。そして、観客のざわめきが起きるとそちらに向かおうとし、皆がぞろぞろと入口方向へ動き出すと同じように移動し、白い幕が下りてきて前の人がしゃがむと同じようにしゃがんだ。もちろん、観ているときは自分が観たいものが見えるように好き勝手に動いていたつもりだったのだが、実はその「観たいもの」自体が他の観客に左右されていたように思う。私が観たかったのは小瓶に刻まれた文字でも走り回るゴリラでもなく、他の観客が注意を向けた対象だったのだ。つまり、周囲の人たちが観たものを見逃すまいと他の観客の気配を察して観劇をしていたのだと言える。

冒頭、本公演は開幕してからの評判により追加公演を行う事態となった、と紹介した。何が行われているのか分からぬまま、Twitter等での評判により人気が出るというのは、それも来場客が気配を察した結果、と言えるだろう。それは、人垣が出来ているとつい中を覗いてみたくなるのと同じ心理なのかもしれない。だが、現在の日本においては、気配を察する・空気を読むということに関し、それだけではないものを感じる。昨年2013年の「ユーキャン新語・流行語大賞」は史上最多の4つであった。「今でしょ!」「じぇじぇじぇ」「お・も・て・な・し」「倍返し」。これらは、ドラマやCMなどテレビの中で生まれ、バラエティ番組などテレビの中で更に繰り返されることで世間一般に広く知られるようになり、私たちの会話の中でも軽妙なやりとりのひとつとして使われるようになったものだ。日常から自然発生的に発展していった訳ではない、いわば無理やり生み出された流行語である。震災後、「絆」という言葉の下、国民が「復興」というひとつの方向に向かって歩むことが求められてきた。もちろん力を合わせることは大事なのだが、一方で、その方向から外れることへの風当たりが強くなっているように思う。そういった、同じ方向を向かなくてはいけないという気持ちが、流行語という言葉による分かりやすい共通項を数多く流行らせた要因のひとつなのではないだろうか。無理やり生み出された流行語ではあるが、私たち自身が、互いに同じ方向を向くためのよすがとして用いることで広まっていったのだと言える。だが、流行語を口にするときに、私たちはそれが同じ方向を向くことにつながっているとは思っていない。ただ好き勝手に言っているつもりが、実際のところは同じ方向を向くためのツールになっていたのだ。

そう考えると、現代社会とこの『光のない。(プロローグ?)』に同じ構図が見えてくる。どちらも、好き勝手に動いているつもりが、実は周りの空気を読んでいた=同じ方向を向いていた、のだ。本公演は、被災地と思しき海や青いビニールシートにくるまれたものなど、震災を連想させる要素は登場するものの、直接的に何らかのメッセージを発信するものではない。だがしかし、震災後のこの社会の縮図のような上演形態により、暗黙の内に同じ方向を向くことを強要されるこの現代社会に警鐘を鳴らしているのかもしれない。

脱げるところまで脱いでしまった、そのあとで

 初めて制服を身につけたとき、なぜこんな高いお金を払ってセンスのない肌触りの悪いものを着なくてはならないのかと、とても不満に思った。文句ばかり言っていた。だが、割り切って着ていると次第に感覚がマヒし、慣れてくる。息苦しさを感じることもままあるが、それを脱ぎ捨てることは誰かが作り上げたルールからの逸脱を意味することでもあり、なかなか面倒くさい。だから、ルールから外れない程度にアレンジを加える。ボタンを多めに外したりジャケットを脱いだり、スカート丈を短くしたり、他のデザインを取り入れてみたり……しかし、それらを拒み端から無縁でいる、または脱ぎ捨ててしまうこともある。劇団「サンプル」による最新作『永い遠足』で描かれる家族像は、制服やスーツと似ている。本作では2つの家族が登場するが、彼らは、衣食住から身体器官、セクシュアリティジェンダーまで、様々に「着る」と「脱ぐ」の狭間をさまよう。

本作は、ギリシャ古典演劇『オイディプス王』を下敷きに創作された。ここに登場する人物たちは、『オイディプス王』と聞いたときに思い浮かべる、悲劇的で抗いがたい運命に翻弄される人々とは姿勢が少々異なる。身の回りに起きた不吉なできごとの元凶を探ろうとする主人公がおり、彼には母親と交わり成した娘がいること、その記憶を喪失していた主人公に、ある人物がそれを示唆することなどは、オイディプスの物語を彷彿とさせる。だが本作では、自らが禁忌を犯したと知ったあとも、主人公がその巡りあわせを呪い、暗闇を一気に転がり落ちていく様はみられない。避けがたい事実を前にしても皆どこかあっけらかんとしている。自分たちの身の回りに起こった所為にすぐ善悪の判断を下すこともない。手に余るものを前にして、どっちつかずのありさまを晒し続ける。

中学校の体育館を利用した舞台は、ビニール袋をかぶった上に耳を着けた自称電気中毒のネズミ・ピーターを語り部として進んでいく。車体に「サンプル」と刷られた電気自動車の荷台には、背中合わせに二つの居間が作られている。ひとつは、ピーターが飼われているノブオの家だ。実験用マウスを飼育する職に就くノブオは、亡くなった母・チヨコとの思い出を糧に生活を送る。どうやら父親はDVを繰り返したあげく、とうの昔に家から姿を消したらしい。ノブオはある日、職場のマウスが伝染病にかかり次々と死んでいく奇病の原因がピーターにあると疑いにかかる。ピーターは疑いを否定するものの、その後、ネズミではないがヒトにもなりきれない姿をした自分と似た仲間と生活すると言ってノブオの家を出ていってしまう。もうひとつの居間では、夫婦が口論を繰り返す様子が描かれる。主婦のキリコと警察官である夫のタケフミは、家出を繰り返す養子の娘・アイカに思い悩んでいたところ、突然現れた自称「桃太郎」の提案にしたがい、もめごとの原因退治へと出発する。ある日ピーターは、電脳空間を渡り歩くマネキン*1に出会い、ノブオには娘がいるという秘密を知る。伝えてはならないと言う約束と引き換えにマネキンから好物の電気を与えてもらうものの、ピーターは秘密を抱えきれずノブオに伝えてしまう。娘の存在を知ったノブオもまた、アイカを探しに出歩く。

小さな荷台の上で交互に示される2つの家族は、過去や役割、ルールに執着を示す。ノブオの場合、大晦日の晩、紅白歌合戦をBGMにソバをすすりながらちゃぶ台の向こうに母親の姿を見ているが、実のところ、彼の向かいに居るのは遺骨の入った箱である。キリコとタケフミの家では、タケフミが、娘とどう向き合うかについて、自らが考えた家のルールに則って対処すべきだと強い口調で諭す。家を掻き乱すのは、ノブオ家の場合はピーターであり、キリコ・タケフミ家の場合は花屋の店長(のちの「桃太郎」)だ。男はキリコのいる家に唐突に上がり込み、家庭事情に探りを入れ、アイカを取り戻すためであれば「一線を超える」と言い出す。そもそもアイカとの関係も不確かなまま、半ば強引に夫婦を家の外へと連れ出していく。前者は興味本位で行動したようにも見えるが、後者は自覚的な行動が描写される。他人の食卓に桃の缶詰を持ち込み、手づかみでむさぼり食ったあげく名乗った名前が「桃太郎」。明るい黄緑色と桃色がプリントされたジャケットを纏い、桃が大好きだと発言するものの、「桃太郎」を思わせる要素はわずかだ。この男は、自分で『これのどこが桃太郎なんだよ!』とツッコミを入れてみせる。自分はいま役を演じているのだということに自覚的だ。ネズミのピーターが、これから始まる話の設定をバラし、途中でネズミらしい容姿をはぎ取ってみせることで舞台の物語性を醒ます役割を担っている。『永い遠足』が、松井周(作・演出)の言う「『物語』や『役割』は、すべて暫定で、「(仮)」」*2であるという考え方を基に組み立てられているとすれば、自分の振る舞いが演技上のものであることを強調する桃太郎は、夫婦をはじめとする登場人物たちを、彼らが生きる「物語」の枠の外へ押し出そうとする産婆のような役割を担っている。

桃太郎の過剰な言動にそそのかされるように、夫婦(キリコとタケフミ)はある変化を起こす。中でも、夫・タケフミの変化は興味深いものがある。桃太郎一行がアイカを探しに出る道中、タケフミは女性として観客の前に姿を現す。アイカを取り戻すためにホルモン注射を打ったと言うタケフミは、父としてではなく母としてアイカと対峙する願望を口にし、なおかつ桃太郎に恋愛感情を抱いているらしい。観客の前にいるのは、金髪ボブに婦人警官の制服、ストッキングにピンヒールの出で立ちでハイトーンボイスを響かせる女性だ。どちらのタケフミも同じ俳優が演じているのだが、以前の、黒髪のオールバックに三つ揃いの黒いスーツを纏うタケフミは影も形もない。しかし興味深いことに、アイカの家出をめぐって夫婦ゲンカを繰り広げるときだけ、タケフミは以前のタケフミを思わせる言動をみせる。婦人警官の容姿のまま、ルールに厳しく野太い声でキリコの非を責めるタケフミが姿を現すのだが、ひとしきり言い終えると女性としてのタケフミに戻ってしまう。この場面を眼にしたとき、私はある小説の登場人物を思い浮かべた。吉本ばなな『キッチン』*3に出てくる、「えり子」だ。もちろん、舞台と小説では視覚イメージに大きな差が生じる。小説の場合、文章からイメージされる人物像や身体的特徴には、読み手によって大きな開きがある。一方舞台では、演じる俳優によって観客の受け取るイメージが限定される。

「えり子」は、妻の病死を機に「雄司」という本名を捨て仕事を辞め、何をするか考えた末に全身に整形手術を施し女性となった。そしてその筋の店を持ち、母親として残された一人息子を育ててきたという身の上をもつ人物だ。日常にはちょっとありえない服装(赤いドレス)と濃い化粧をし、「人間じゃないみたい 」*4と形容される容姿の持ち主として描かれる。女性となった後のタケフミのスカート丈やツヤツヤした金髪などの(街で見かける女性警官の姿と比べれば)過剰なファッションと、えり子にとっての制服である商売のためのきらびやかな衣装と化粧が、重なってみえた。もうひとつ、タケフミにえり子の姿を思い浮かべた大きな理由がある。「えり子」は、ストーカーに殺されるかもしれない危機感を前に、一人息子に宛て遺言状を書く。そこには、「女性として生きていてもこれは役割であって、心のどこかには男の自分がいると思っていたが、いざ男言葉で手紙を書こうとしたら恥ずかしくて筆が進まない」心境が、母の立場から綴られる。母親であることは、えり子にとって生きる上での選択肢であり、ひとつの役割だった。だが彼女の場合、役割を外そうとしても男性の心境に立ち戻ることはできず、女性として人生を終えていく。一方『永い遠足』のタケフミの場合、性を変更するが、言葉遣いや立ち振る舞い、それまでの言動など、自分が男性であり父親であった頃の記憶を保っている。彼は心身に女性性を抱え込んだまま、父親としての役割と母親としての役割のあいだを行き来する。ここに、本作のタイトル『永い遠足』を思い起こす。

本来ならば「遠足」とは、日帰りで目的地へと向かい同じ場所へと戻ってくる道のりを指す。だが、特に荷物も持たず家を後にした彼らは、最後までどこかに腰を落ち着ける素振りを見せず、さまよい続ける。同じ場所と言っても、人も物も環境も、連続しているようにみえるだけで瞬間瞬間で切断されており、おなじようにそこにあるものはない。それでも、いつもの家に帰って同じ寝床で同じ顔をみて眠りにつく(ようにみえる)ことに安心感を覚える。しかし、性を変え姿を変えたタケフミにとっては、「元の場所」はあまりにも遠い。ノブオやピーター、アイカらも同じだ。家を出たノブオは、実の父親であることを隠しアイカと会い、金銭と交換に「親子プレイ」をする。二人は、それまで纏うことのなかった役割を纏う。しかし、プレイだったものが血縁関係に基づく「役割」で永続的についてまわるものだと明らかになったとき、新たな着脱がおこなわれる。ちょっとした遠出程度の気持ちで家を出たものの、家を去ってからの出来事とそれ以前をまっすぐ繋ぐには、彼らはあまりにも遠くに来てしまったのである。

こうしてすべての関係があばかれたのち、肩を支えられ歩く盲目のノブオのすがたが暗闇に浮かび上がる。彼は途中、失った両目に代わり、ピーターが置いていった人口のiPS細胞で作られた眼球を入れようとするが、上手く扱えず手から取りこぼしてしまう。その手を取るのは、名前を唯一の友だちに譲り渡したアイカだ。目に映るものを取り除いてしまったノブオと名前のない相棒が、暗闇のなかを歩いていく。もともと見えていたものが見えなくなる状態や、もともとあった名前を呼べなくなる状態は、想像するだけでも落ち着かない。ノブオは自らの手で両目から光を消してしまう。『オイディプス王』に倣う行為ともとれるが、複数用意されていたiPS細胞でできた眼球を手にしても、彼は戸惑いのうちに盲目であることを選択した。視力があれば、帰るための道筋を探そうとしただろうか。アイカはアイカで、名前を譲り渡したあとに自分で新たな名前を名乗ることはできたはずだ。だが、彼女は名前のない時間を選択した。舞台の上で、名前を棄てたあとに彼女の名を呼ぶものはいない。二人はそれぞれに脱げるところまで脱いでしまったあとで、何かを「着る」行為は手に余ったのかもしれない。彼らの遠足は横へ横へとはみ出し、終わるところを知らない。

 

参考文献

現代思想 特集:人間/動物の分割線』青土社、2009年7月号

『トランスフォーメーション』ACCESS、2010年

松井周(責任編集)『雑誌サンプル vol.1 特集:変態』サンプル、2013年

*1:冒頭、始終携帯を手放さないアイカにとって、マネキンが唯一の友人で話し相手であることが描かれる。

*2:F/T13サンプル『永い遠足』ハンドアウト インタビューp.3

*3:吉本ばなな『キッチン』(2002, 新潮文庫

*4:同上、p.19

目を合わせないこと

 本来ならば客席であるところに観客は座り、少し見上げる形で客席側に立つ俳優たちを観る。物語は、とある町にいる、とある女の登場から始まる。俳優たちは皆、何か制限が加えられているようにぎこちなく震えながら演技し、発せられる言葉も感情を抑えられたような様子で、抑揚が無い。昔住んでいた場所の記憶が定かでない女は、いつのまにか繰り返す日常を抜け出し、地球外の星へと歩きだしていく。帰りたいと願いつつも、旅はどんどんと続いていく……。


 この『野良猫の首輪』では、一般的に想像されるような演技とはかなり様相の違ったことが行われている。小刻みに震える身体だけでも特徴的ではあるが、さらにその身体は垂れ流すように言葉を発する。そして極め付けには、視線がおかしい。誰もが目を合わせない。俳優たちは、まるで座禅を組む時のように、半分(もしくはそれ以上)目を閉じながら斜め下のほうに視線を落としていた。それは、目で受け止める情報を拒否するかのようにも見える。sons wo:のHPに掲載されている演出ノートには、「野良猫的なもの」に関して、「見下ろす」という行為を挙げている。その「見下ろす」という視線がここで表されているのだろうか。なんにせよ、以下では、その「目を合わせないこと」によって生まれるいくつかの特徴的なことについて挙げていきたいと思う。


 まず、交差しない視線は、会話の交差しなさにまで影響を与える。会話の相手に目を向けないことにより、相手に言葉を届けると言うよりかは、中空に言葉をぼとぼとと落としていくような印象を受ける。主人公である女のモノローグとダイアローグにおける抑揚の変化のなさも相まって、言葉は相互で交わされるとしても、コミュニケーションはとれていないのではないかという気になってくる。まるで、相手が何を言おうと、機械的に言葉をかえす人形のようだ。


 そして、相手に視線をやる、といった方法のコミュニケーションがとれない状況に陥っている登場人物たちの共有できるものといったら、爆音で流れる音楽なのである。本作での場面場面の切り替わり、というより場所を移動する際にキーとして使われるのがSimon & Garfunkelの曲である”Bridge Over Troubled Water”だ。それがコミュニケーションの代わりになっているとまでは言えずとも、出口のないだらだらとした会話の突破口となるのは事実であり、この音楽と、スライドに映される観客に向けた場面転換の明示により、物語は進むことができる。登場人物たちの何も見てはいない状態――盲目であると言っていい状態――において、力を持つのが聴覚情報であることはそこまで不自然なことではない。


 もちろんその盲目性は、主人公が「自分が昔いた場所」さらには「自分が今いる場所」を分かっていないという態度にも見受けられる。目をほとんどつぶっているのだからそりゃあ場所を認識することは難しいだろう。加えて、作中登場する宇宙人たちは、衣装に少し工夫がある程度で、見た目的には地球人と差はない。そんなところにも、視覚情報の必要性が薄れていることがうかがえる。


 「目を合わせないこと」、それだけで外界との触れあい方はこんなにも変容してしまう。コミュニケーションとしての言葉は半ば殺され、聴覚情報の重要性が増し、自分の現在地さえわからない。視覚が支配的な状況に慣れている者からすれば、この変化は外界からの孤立を感じさせるものではないだろうか。もしかすると、この状況を受け入れることは、盲人の世界観の一部を感じ取ることにさえなるのかもしれない。


 舞台と客席の反転により与えられた視点や現代美術作品の展示は、以上のような捉え方に沿わせると効果をあげているとは言い難い。ただし、この盲目的世界に野良猫の「見下ろす」という行為を組み込む――高低差から考えて、客席(本作での舞台)から舞台(本作での客席)をみると、見下ろす形となる――ということは、構造的に、新たに俳優側から観客への視点を生み出しているとも言える。視点を没することに対し、もっと強烈にこの視点の誕生が現れてくれば、もっと複雑な世界観が展開していくのかもしれない。少なくとも、その可能性を感じ取ることはできた。



徳永綸(とくながりん)

1992年生まれ。町田在住。横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程3年。

昨年度のブログキャンプに参加。2013年前期KAATインターン生。

文字と共に旅をする

 観客が劇場に入ると、目の前には大きな二枚の絵画がぶらさがっている。片方はしっかりと枠に貼られているキャンバスに描かれているが、片方は枠無しである。両方の絵に描かれているのは、本作、『光のない。(プロローグ?)』の戯曲の文章である。正しく言うと、それぞれ白と黒の紙が絵の中に描かれており、その紙の上に文字が書かれている。色的には対比を成しているこの二作であるが、キャンバスのことにしても、この二作は対称的な関係にある、とは明言できない。私は少しの腑に堕ちなさを感じつつ、さらに展覧会形式になっている劇場内を進む。するとさらに絵画作品、写真、立体作品と順に出会っていくことになる。そのどの作品にもいろいろな方法で文字が登場する。時には絵の具で描かれていたり、写真の中に映っている窓に刻みつけられていたり……。


 この作品中では、戯曲が「文字」という目で見える形になり幾度も登場している。のちに、展覧会場に躍り出てきたゴリラが振り回す牛の死体にも、音楽を奏でるゾンビリコーダー(※)が据えられている台にも、文字(文章)が張り付けられていた。公演の後半に登場する映像の中でも、首から上がゴリラである人(?)物の手のひらに文字は書きつけられている。しかしながら、文字は必ずしも読まれなければならない存在としてあるわけではない。それは私たち観客の動きの自由さにも理由がある。


 まず、固定された展示作品を見るときに、観客は動いて観て回ることが求められる。しかも自由に。作品を眺める時間も、観る順番も自由だ。この作品には観客席というものは用意されていない。ゴリラが登場した後も、基本的にはどこで立って観ていようとも構わないといった内容だ。もちろん技術的な面で多少ここには立ってはいけない、という制約が発生することもあったが、観客全員に強いられたことではないので割愛させていただく。


 ただ公演後半になるとその自由さにも少し制限がかけられる。劇場に白い幕が引かれ、そこをスクリーンとして観客たちは被災地をロケ地とした映像を観る。映像を前にして、わざわざ動き回る人はいないであろう。皆一様につったってスクリーンを観ることになる。その後にはもともとあった展覧会場が復帰し(公演序盤で取り払われていた)、観客たちは誘導に従ってラストシーンを観るための場所にぞろぞろと移動することになる。どこからでも観て良いですよ、という状態に対し、こうやって、こういう順で観てください、というゆるやかな誘導が挿入されたのだ。


 そのような、制約されない「さまよう」動きがあり、そしてのちに制限が加えられる、といった構図は、そのままこの作品に登場する「文字」の状態に酷似している。冒頭でも語った通り、「文字」は何かひとつの規則の中で展示品の中に描かれているようではない。そして絵画から写真、はたまた立体作品の中までをも行き来する。いろんな場所で撮影されたであろう写真の印象もあり、「文字」がふらふらと旅をしている、そんな感覚に私はとらわれた。ひとつの媒体にとどまることなく、牛の死体をはじめいろんな場所を「さまよう」のだ。観客はそのような「文字」の態度同様、この震災に関する物語をふらふらと旅していくことになる。しかし作品の最後になると、観客に読んでもらうことを明白に意識した「文字」が提示される。「光のない。(プロローグ?)」。ラストシーンで観客は、大量のブルーシートに包まれた土(であろうと予測されるもの)、そしてその土の中心で苦しそうにもがくゴリラの姿を見せられることになる。そのシーンの奥の壁に、本作の題名がでかでかと書きつけられているのだった。


 判然としない「文字」の旅はそのラストシーンで終わりを告げる。その時点で動きの誘導に合っている観客たちも、「文字」――イェリネクの戯曲と共に作品をさまようことをやめていると言える。しかしながら、観客は作品を見終わったあと、その場を立ち去るという動きをしなければならない。もはや固定されてしまった存在である「文字」やブルーシートたちと離れ、旅を続けなければならない。観客と同じく「文字」が書きつけられていなかった生物であるゴリラは、ブルーシートの中心で苦しみながら地の底へと消えて行ってしまった。残された私たちは、「震災後」という世界をさまよい生きていく現実に直面しているのだ。それは当然の事実でもあるのだが。



※……音楽を担当した安野太郎により制作されたもの。人ではなくコンピューター制御により、リコーダーが演奏される。

 

徳永綸(とくながりん)

1992年生まれ。町田在住。横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程3年。

昨年度のブログキャンプに参加。2013年前期KAATインターン生。

揺らぐ境目/その周りで

1. 揺らぐ境目

 象の鼻テラスの 3面の外壁を兼ねる大きなガラス窓からは、象の鼻パークとその向こうの横浜港が広く見わたせる。Theater ZOU-NO-HANA vol.5『象はすべてを忘れない』(柴幸男(ままごと)演出、以下『象』)は 11月一杯の公開稽古を経て、12月前半の木曜から日曜にかけて公演された。筆者が立ち会うことができたのは 14日と 15日、楽日を含む 2日間だ。テラスから周囲の象の鼻パークまでを使って、20人以上の出演者によるさまざまなパフォーマンスが行われた。

 わけても「象の鼻スイッチ」は魅力的だった。テラスやパークの各所に(多くは、スタンプラリーに使う小型のスタンプ台のようなものに)設置された小物=スイッチに触ると短いパフォーマンスがなされる。たとえばテラス内で釣り竿を引くと屋外にいる出演者を釣ることができ(出演者が釣られた魚のような振舞いをはじめる)、太鼓をたたけばどこからともなく「日本一!」と合いの手がかかる。屋外に設置された額縁のような木枠を手にとると急に音楽が流れだして俳優が視界に走りこみ、覗きこんだ木枠のなかで短いドラマが演じられる。

 個々のスイッチにどのようなパフォーマンスが対応するかはブラックボックスなようでいて、じつはほとんど事前にわかっている。スイッチとパフォーマンスはオープンな場所に設置されて演じられるから、観客(となり得る人)は他の観客がスイッチを入れる様子をすでに見ているのだ。そうして慣れてくると、未知のスイッチが設置されてもすすんで押してしまうようになる。他の観客や子供たちがスイッチで遊んでいるのを眺めているだけでも面白いし、そのうちにまた自分もやってみたくなるかもしれない。すこし疲れたらソフトクリームやビールを頼んでもいいし、飽きたら散歩に出たり本を読みはじめてしまってもいい。

 その場に立ち会っていさえすれば、すべてのスイッチを入れることができ、すべてのパフォーマンスを楽しむことができる。だから上演を知っていて象の鼻テラスを訪れた人もいただろうし、偶然近くを通りかかっただけの人もいたはずだ。知らずに訪れて少しだけ試してみた人や、少しのつもりが長い時間を過ごしてしまった人、あるいは遠巻きに眺めていた人。そうして迷惑して遠回りした人や、迷惑すら感じることなく、自分と関わりないこととして突っ切った人も。

 象の鼻テラスの周りには、パフォーマンスと観客(となり得る人)との関係の結びかたが豊かに散らばっていたように思える。それはたとえば、劇場においては舞台と客席の間に、あるいは第四の壁と呼ばれるものの内に折りたたまれている二層の境界が、個別に扱われていたせいかもしれない。内側にあるものから数えて、一層はパフォーマンス(と観客、客席)の境目、一層はパフォーマンスが行われ得る空間(と行われ得ない空間)の境目である。

 『象』においてパフォーマンスの境目は、その時々によって変化していた。たとえば「象の鼻スイッチ」の時間には観客とパフォーマンスがおなじ空間に混在して、しかも両者のあいだに交流があったために境はほとんど無くなってしまい、パフォーマンスが行われ得る空間の境目と同化していた。その次の音楽ライブ(星野概念&シアターメンバーによる)ではメンバーたちがほぼ一個所に固定され、ために観客とパフォーマンスのあいだに一度境が生まれた。その後「象のぞうまとう」のテラス内でのダンスパートでは、カフェのテーブル席に座った観客たちの間を縫うようにダンスが行われた。このとき観客とパフォーマンスは位置関係としては混在していたものの、ダンスはあくまでパフォーマーのものであり、両者の境は客席とフロアとのあいだに生じていた。

 パフォーマンスが行われ得る空間の境目にも変化がある。「象の鼻スイッチ」の時間には象の鼻パークの、象の鼻テラスからだいぶ遠いところまでがその空間に含まれた(スイッチが設置され、パフォーマーが演じていた)し、音楽ライブでは一旦、象の鼻テラス内部だけに縮小された。その後「象のぞうまとう」について俳優が語りだす辺りから、また次第に象の鼻パークまで拡張された。

 劇場においてはさらに外側に、これら二つの境を内包する閉じた境界が引かれている。劇場外からの視線と観客の自由な出入りとを遮る、物理的な壁面である(もちろん劇場における壁面は、本来的には劇場内における上演・観賞環境をより最適にコントロールできる様に立てられているのだ(と思う)が、それが物理的な壁面である以上、視線や出入りを遮るものとしても機能してしまう)。『象』にはこの境界もない。なにかパフォーマンスが行われているらしいことは遠くからでもわかったはずだし、興味がわけば自由に近づくこと(そして、自由に離れること)ができた。

 二層が個別に扱われてそれぞれが境界としてあらわれたこと、時々によって変化したことに加えて、その外側の境界も取り去られていたことで、パフォーマンスに対する観客の立ち位置のバリエーションを広く取ることができたのだ。


2. しなくてもいい人

 場合分けが必要な事例を参照したい。居間theater『ヒルサイドパフォーマンスカフェ』(以下『ヒルサイド』)は代官山ヒルサイドカフェで上演された。居間theaterは谷中の HAGISOを中心に「パフォーマンスカフェ」を実施してきた。カフェ営業店舗の通常のメニューに加えて、パフォーマンスをオーダーをできる様にする試みである。パフォーマンスメニューは「ひとりじめ」「おすそわけ」「VIPルーム」と3種あり、「ひとりじめ」「おすそわけ」を選ぶとカフェ席のフロアで2~5分程度のパフォーマンスがなされる。間断なくパフォーマンスがなされるということではなく、連続することもあれば、しばらく静かに過ごす時間ができることもある。

 ヒルサイドカフェは一面がガラス張りで、その向こうに旧山手通りに面した中庭がある。小売りの屋台やワゴンが広げられ、誰でも立ち入ることができる。パフォーマンスはカフェ席からだけでなく、この中庭からもガラスを通して観ることができた(パフォーマーが外に出て、ガラス面のそばでパフォーマンスすることもあった)。

 パフォーマンスがオーダーの対象なので、観客(となり得る人)は「注文できる人」(カフェ利用者)と「注文できない人」(中庭にいる人)に二分される。「注文できる人」にとってパフォーマンスの境目はカフェ席とフロアとの間にあり、パフォーマンスが行われ得る空間の境目はガラス面のあたりにある。「注文できない人」にとってパフォーマンスの境目とパフォーマンスが行われ得る空間の境目はほぼ一致していて、ガラス面のあたりである。また中庭からの視線・動線を遮る物理的な壁面は存在しない。『ヒルサイド』において特徴的なのは、カフェに入店する/退店することによって、同時に存在している二つの観賞環境を行き来できることだ。

 パフォーマンスを注文しようとする観客(となり得る人)には少し負荷がかかるかもしれない。それは注文のシステムが観客(となり得る人)に対して個としての表出を要求するからだ。自発的に注文しなければならないし、注文したらパフォーマンスがなされるまで待ち札(ファストフード店などで、3番の札でお待ちください、というような)が置かれる。始め終わりにはパフォーマーとのささやかなコミュニケーションもある(かもしれない)。「パフォーマンスを注文する」という振舞い自体もどこか演劇的で、役を演じさせられているような側面がある。

 一方で「注文できる人」は必ずしも注文しなくてもよい立場である。利用客のなかにはカフェとしてだけ利用するつもりで訪れた人もいたのではないか。実際にパフォーマンスに目もくれず、お喋りを続けているテーブルもあった。ほかの誰かによって注文されたパフォーマンスが始まっても、せいぜいひと目遣るくらいで、すぐにお喋りに戻っていく。それもパフォーマンスとの関係の一つのあり方である。

 中庭にいる人は「注文できない人」で、そもそも「パフォーマンスカフェ」の仕組みもおそらくよく知らされていない。パフォーマンスが注文されたものであることもあまり把握されていなかったのではないか。観客に仕組みを伝えること/伝えないことによっても、また関係のあり様が変わる。


3. 伸ばした手の先

 異なる場合分けが必要な事例を参照する。F/T公式プログラムであるシアタースタジオ・インドネシアオーバードーズ:サイコ・カタストロフィー』(以下『オーバードーズ』)は屋外公演で、池袋西口公園に竹材を組んで特設舞台が設営された。西口公園のどこからでも、この巨大な竹組みの構造物は目に入る。俯瞰からみると長方形になるこの舞台のうち短辺 2辺には壁がなく、客席に入場しなくても外から舞台を覗きみることができた。

 外から観られるポイントはおおまかに 3個所あって、もっとも多い時間帯には合わせて 40人近くが舞台を覗いていた。公園の喫煙所からの視線も数えれば、50人近くは観ていたはずだ。もちろん客席から観賞するのと外から覗きみるのとでは、体験の内容は大きく異なる。特に終盤には演者から客席の観客へ、木の粉が手渡される演出があって、それを受けとって客席を後にすることと、その様子さえよく見て取れないまま終演を知ることの差は大きい。

 客席の観客にとってのパフォーマンスの境目およびパフォーマンスが行われ得る空間の境目は、舞台と客席との境目と一致する。けれどそれは終盤の演出で崩され、終演時には客席を含む空間までが境界の内側に含まれるようになる(あるいは終演後に退場してからも、体験が連続していると感じられたかもしれない)。外から覗いていた観客にとっては客席を含む特設舞台がいずれの境界としても機能したはずだ。外からの視線を物理的に遮る壁面こそ存在しなかったものの、客席/外の自由な出入りを制限する壁面は存在していたことには留意したい。

 外から覗いていた観客について詳しく見ていきたい。F/T12の F/Tアワード受賞団体であるシアタースタジオ・インドネシアによる F/T13公式プログラム『オーバードーズ』について、事前に十分に提供された情報を把握したうえで観劇していた人ももちろんいただろうし、事前情報を何も入れず、ただ通りがかりに物珍しくその光景を眺めていた人もいたはずだ。後者の人々が観ていたものはやはり同じ演劇だったのだろうか。彼らの視線はもしかしたら、大道芸を観る人のそれに近いものだったかもしれない。

 ここで大道芸を引くのは、観客とパフォーマンスの関わりかたについて参照したいからだ。演劇ではおおよそチケットが前払いで、大道芸では後払いである。前払いというのは、パフォーマー側は演劇を見せることを、観客側はパフォーマンスに必要なあいだ自身の時間の拘束を許すことを、互いに事前に約束するということだ。一方で後払いということは、パフォーマーは観客の時間をあらかじめ拘束できない=芸によって観客を惹きつけ続けなければならない、途中から観はじめた観客も惹きつけられる様に組み立てなければならない(そして観客は、惹きつけられて楽しんだ分は払わなければならない)、ということである。

 通りがかりに『オーバードーズ』を観はじめた観客はすこしでもつまらなく感じたらその場を立ち去ってしまったかもしれない(あるいは、結果的に最後まで見通すことになったかもしれない)し、他方で演劇として観ていた人は、当初から終演まで見通すつもりでいたはずだ。客席で観ていた観客ももちろん見通す気でいただろう。少なくとも 3パタンの観客が『オーバードーズ』を取り巻いていたのだ。

 果して『オーバードーズ』は、それを演劇として観ようとしていた観客にだけ向けて上演されていたのだろうか。もう少し射程を広げていたように筆者には思える。より具体的に言うなら、客席の観客と客席外の観客、そして客席外から眺める人々、の少なくとも三者に対して、三様の関係を結ぶつもりをあらかじめもって上演がなされていたように思える(一つの関係性のありかたによって三者と関係を結ぼうとしたのではなく)。あるいはたとえば舞台を眺めていかなかった、池袋西口公園を通ってどこかへ急ぐ人とのあいだにも、なにか関係を結ぼうとしていたのかもしれない。やり方はまったく違っているけれども、外側への手の伸ばしかたには『象』と通じるものがあるように感じられた。


4. その周りで

 ここまで、開かれた場所で行われるパフォーマンスと観客(となり得る人)の関係のあり方を見てきた。しかしそれは劇場のような閉じた外壁がある場所で行われるパフォーマンスでは関係のあり方がつねに一様である、という事ではない。例えば東京デスロック『東京ノート』ではパフォーマンスの境目が観客とパフォーマーの間に置かれ(身体が接触するほど近くにいるが両者の間に交流が起こらない)、パフォーマンスが行われ得る空間の境目と物理的な壁面がほぼ一致していた。ひとつの空間が舞台であり、客席だったのだ。ミクストメディア・プロダクト×東京アートポイント計画『三宅島在住アトレウス家』≪山手篇≫ではパフォーマンスの境目が主に観客とパフォーマーの間に置かれつつ、時折消失して両者の交流が起こった。パフォーマンスが行われ得る空間の境目はやはり物理的な壁面と一致していた。

 境目をどこに置くかということが問題で、もちろん開かれた場所のほうが自由に境目を置きやすいのだが、物理的な外壁が閉じているかどうか≒劇場で行われるか劇場外で行われるかはパフォーマンスと観客の関係を見ていくうえでは一つの要素、設定すべき境目のうちの一つにすぎないのではないか。演劇のまわりにある境目をすこしずつずらして置かれることによって、観客とパフォーマンスの関係もずらされ、そこで可能なあり方にばらつきが生じていく。

 もちろんそこに個々の観客がどのような姿勢でパフォーマンスに関わろうとしているか、というのもたいへん重要だ。それは必ずしも積極的である必要はないし、批判的な立場であってもよい。姿勢という言葉から連想されるようなしっかりした意思に基づいていなくてもいい。観客がそれらを表出させることによって、パフォーマンスとの関係性がどのような距離感をもって生じたのか、またそれがパフォーマーが用意した境目のまわりにどのように分布したのか。パフォーマンスの周りで揺らぐ境目とその周りに観客はどのように居ることができるのか、もう少し考えたい。

 

 

斉島明(さいとう あきら)

1985年生まれ。東京都三多摩出身、東京都新宿区在住。出版社勤務。PortB『完全避難マニュアル 東京版』から演劇を観はじめました。東京のことに興味があります。@

■ワンダーランド寄稿 http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/saito-akira/

■ブログ fuzzy dialogue http://d.hatena.ne.jp/fuzzkey/

■高山明氏(PortB)インタビュー:ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」02に掲載

恐ろしいこと満載の人生 –北千住の恋人–

 『四家の怪談』は、北千住界隈をめぐるツアーパフォーマンス形式の演劇であると聞いていた。スタート地点となる集合場所のホールに行くと、友人のH嬢に会った。F/Tの会期中は彼女によく会う。

 

 作・演出の中野成樹は、海外作品の大胆な翻案「誤意訳」で知られる。彼と、ドラマトゥルクとして多くの作品を手がける長島確、建築家の佐藤慎也の三人によって、“四谷怪談”と呼ばれる物語はさまざまなバリエーションがあり、一番古いのは『雑談集』という本であること、一番有名なのはそれから100年後に鶴屋南北が書いた『東海道四谷怪談』であることが語られる。そして今回、それらをもとにした一番新しい民話『四家の怪談』が、中野によって創作された経緯の説明がなされる。ちなみに今回の作品にあたって「つくりかたファンク・バンド」という、写真や音楽、イラストなどの専門家を集めたチームが結成されており、中野、長島、佐藤はいずれもそのメンバーである。

 

 私は受付で、『四家の怪談』の小説を受け取り、開演時間までの間に読了した。岩という娘と伊右衛門という男、その妻の花を取りまく人々について、荒川近くの五反野、牛田という街を中心に描かれている物語であった。二人の出会いは北千住前の居酒屋で、岩はアイドルグループに入りたいと思っている普通の19歳の女の子だった。手元にはあわせて配られた、小説にゆかりのある場所や、中野、長島のおすすめの場所が書き込まれた地図がある。集まった人々は、その地図を携えて、小説の舞台になった街に出ることになる。

 

 街に出て、最初はひとりで歩こうかと思ったが、何となくH嬢と連れ立って行くことになった。中野版『四家の怪談』の小説には、かつしかけいたによるひとこままんがが随所に添えられている。そのまんがの台詞のひとつに、女性ふたりが北千住らしき駅の周辺を歩きながら「この辺てさ、ありなのかな」「えっ、ありじゃないの?なしなの?」という会話を交わしているものがあって、それはおそらく居住する対象としての北千住についての意見を交換しあっているのだと思うが、私はふとH嬢に「北千住に暮らす男は恋人としてあり?なし?」と、尋ねてみた。

 

 恋人の住所は、恋愛において重要である。自宅に通うのが面倒でないほうがいいし、デートをするのにもどこで待合せをするかが問題になる。何より恋人の住む街には親しみもわくし、何気ない風景も特別に見えるものだ。私が「ちなみに私はなしかな。なじみのない街だし」と先に言うと彼女は「私、実は綾瀬で生まれたから逆にありだな」と言った。逆にって何だろう、と思った。

 

 「『四谷雑談集』の方は行った?」と聞かれたので「昨日行ったよ」と答えた。『四谷雑談集』は、同じく中野・長島のコンビによるF/T13の演目で、こちらは先述の、四谷怪談バリエーションの中でもっとも古い『雑談集』ゆかりの地である新宿区四ッ谷駅にある田宮神社周辺をめぐるツアーであった。四ッ谷は坂道の起伏が激しい町並みで、街の遠景は坂の上から臨む形だったのだが、この北千住の街には坂らしい坂が無かった。

 

 しばらく北千住駅周辺を歩いてから、次の目的地である日ノ出町団地を目指した。団地のそばで、「恨み晴らさずお空を晴らせ」というキャッチコピーとともに、『あ・お・ぞ・らDestiny』と、大きく書かれ、若い女性が中央に立っている写真が貼られた黄色い広告車を見つけた。車のスピーカーからは、少し調子はずれだが、軽快なポップスが流れている。そういえばこの車は、『四谷雑談集』のときも町中を走っていた、ということに気づき、岩がアイドルになりたかった話や、つくりかたファンク・バンドの中には音楽家の大谷能生がいたことなどが一気に頭の中で像を結んで、フィクションと現実の風景が衝突したときのざらついた感触を味わった。

 

 続いて地図に導かれ、生まれて初めて荒川の堤防に上った私は、眼前に広がる景色に思わず「金八先生の世界だ」とつぶやいた。小説の中で、岩と伊右衛門が別れ話をしたベンチが見えた。坂の無い町並みは、どこまでも見渡すことができた。

 

 川の表情は、流れる街によって異なる。江東区の隅田川、横浜の大岡川、多摩の玉川上水。かつて自分が見た様々な川とこの荒川を重ね合わせて比べながら、これが岩たちの日常にある川なのか、と思い、この河原で別れ話をしたら、大きな川と対岸の高速道路に何もかも流せる気持ちがするんだろうか、と考えたりもした。

 

 地図に従い、東武牛田駅を探す。駅は見つけにくい場所にあり、スマートフォンからGoogleMapを駆使して何とかたどり着いた。京成関屋と東武牛田の改札口は、向かい合った目と鼻の先にあって、平坦なこの土地のことだから、ここにしか駅が作れなかったなどということはないはずで、当時の京成電鉄東武鉄道の妙なパワーバランスが窺い知れるようだ。ここから三つ先の五反野駅に向かうのであるが、電車はなかなかやってこず、駅までの迷子のためにすっかり疲れて退屈していたので「そういえば京成線のマスコットのパンダって超かわいくないからぜひ調べてみて」とH嬢に勧めた。彼女は素直に画像検索をおこない、呻き声を上げていた。

 

 予定より少し遅れて五反野につき、駅前から広がる商店街を眺めた。駅の目の前には中華料理店があり、これも本の挿絵のひとこままんがにあるとおりの佇まいだった。

 

 未踏の地であった五反野に降り立った私は、驚いていた。暮らしやすそうなのだ。何とも言えず。素朴な舗装の道路は幅もほどよく、平らでどこまでもまっすぐである。クリーニング屋、八百屋、ドラッグストア、小さな食堂が並ぶ町並みは、ほんのり温かさが漂う。私は「北千住に暮らす恋人はありか、なしか?」という、ツアーの初めに己の立てた問いが跳ね返ってくるのを感じていた。

 

 「ああ、こんな暮らしやすいところで誰かといたら、情がわいちゃって仕方ないわ」
 思わず私がつぶやくと、H嬢が何を思ったかは分からないが「……本当だね」とぼそりと言って、急に頭を抱え出した。私も、自分で言ったことの恐ろしさが後から染みてきて、手を口にあてた。岩と伊右衛門の、かりそめでもいとしい生活が、商店街の其処彼処に立ちのぼるのが見えるようだった。この街に暮らす女のもとに帰る伊右衛門の情が流れ込んでくるのを感じて、身体を震わせ、「なんと言うホラーだろう!」と言い合って、二人で身悶えした。

 

 それは『四谷怪談』が、伝説や作り話の薄皮をやぶり、われわれの眼前に出現した瞬間であった。五反野で暮らす女のもとに通う男について想像したときの、生々しい感覚。古今東西の怪談話がこの身に迫りくる何かの恐ろしさを語るものならば、肌になじみ、徐々に生活と化してゆく恋愛の過程が怪談でなくて何だと言うのか。

 

 岩がかわいそうだった。伊右衛門もかわいそうだと思った。好きになった人に既に相手がいたことも、相手がいるのに好きな人ができてしまったことも、秘密を言い出せずにこじれる思いとか、バイトの女の子に手を付けまくる上司だってよくある話だ。珍しいことじゃない。多くの人は、そうした「痴情のもつれ」をやり過ごして生きている。そこから道を踏み外してしまった岩は、寂しい、うらめしい、という嫉妬にいっそ狂いたかった様々な人間の願望が重ねられた姿なのかもしれない。

 

 岩はたぶん、特別傷つきやすかったのだ。そのために、彼女は消えてしまった。人々が今日も胸の奥に劣情を隠し、平穏な生活を送れるのは、岩が犠牲となった「物語」のおかげではないか。物語を読み、岩や伊右衛門に寄り添う気持ちを持つことで、人々は自らの心を慰めてきた。だから岩の物語は、四ッ谷と雑司ヶ谷という異なった舞台で何百年も語り継がれてきた。物語を得た人々は、傷つかない心で生き抜くのではなく、傷つくことを受け入れる強さを持つ。それが中野の小説の最後で語られる“「呪い」から「祝い」”への反転の、脚力というべきものだ。そして新しい物語が、今回「よつや」という音をたよりに、北千住の地に「誤意訳」され、生まれた。

 

 地図上に示された場所をすっかり回り終え、私とH嬢は小説にも登場する中華料理屋に入って、レバニラ定食とキムチタンメンを頼んだ。運ばれてきた料理はずいぶん量が多かったが、いくら泣いても癒えない傷がこの世にないように、いくら食べてもなくならないと思っていたレバニラも、少しずつ咀嚼して飲み込んでいくうちに空になった。箸を置いて「ごちそうさま」と手を合わせたとき、レバニラを二人で食べることがかなわなかった岩と伊右衛門のことを思い出して、これも供養になりますように、と祈った。

 

 

 

落 雅季子(おち まきこ)

1983年生まれ、東京育ち。会社員。主な活動にワークショップ有志のレビュー雑誌”SHINPEN”発行、Blog Camp in F/T 2012参加など。藤原ちから氏のパーソナルメディアBricolaQスタッフ。@ 

■BricolaQ http://bricolaq.com

■ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/

■観劇ブログ「机上の劇場」 http://an-armchair.jugem.jp

Qは「形」を問う――Q『いのちのちQⅡ』

 

 Q『いのちのちQⅡ』は〈O〉と〈Q〉という「形」に貫かれていた。

ニンゲンの世の中の「形」に飼い馴らされきれない、そこからはみ出している、無理している存在が気になっている。(Q公式ウェブサイト

 この紹介を書いたのが誰かはわからないが、しかしここで言われている「ニンゲンの世の中の『形』」とは、『いのちのちQⅡ』において、回転、球、円環といった円いものによって表現されている。これを図示して〈O〉と呼ぼう。そして、そこから「はみ出している、無理している存在」も、やはり『いのちのちQⅡ』には登場する。「形」が〈O〉であるなら、そこからはみ出すものは、〈Q〉によって図示することができるだろう。劇団Qは、『いのちのちQⅡ』において、〈O〉と〈Q〉を描き出すことで、「ニンゲンの世の中の『形』」すなわち〈O〉を、鋭く問うている。

 本作においてヒロインのように振る舞うのは雌の犬、ジョセフィーヌ15世だ。人間の役者が演じていて、人間の言葉を話し、また4足歩行をするようなこともないが、犬という設定である。犬としては他に、やはり血統書付きでジョセフィーヌのフィアンセである雄犬のナイスと、雌犬のおぐり、そして雑種犬で外で飼われていた「犬」(後に「のりのみや」という名のあったことが明らかにされる。雑種犬に天皇家の名、という皮肉)も登場する。主にジョセフィーヌの家出から帰宅、そして妊娠までが描かれるが、それに並行して他の犬たちや飼い主である「娘」、回転寿司屋を営む女・みる子とそこでアルバイトをするリカ・スケの物語も描かれる。

 これらの物語の中で、頻繁に現れるモチーフに、まず〈O〉、すなわち回転、球、円環があった。これから〈O〉が本作のどこで、どのように意味づけされて現れていたか、見ていこう。

 まず回転から見ていく。開場した時から回り続けている回転寿司のベルトコンベアがもっとも目立つ回転であろう。他に、リカによって執拗に続けられるバレエのターンを思わせる動きや、物語終盤の、やはり執拗に続けられる木を中心点にしたジョセフィーヌとリカの追いかけっことして回転が現れる。自転車で客席をぐるりと回って舞台に戻ってくるみる子の動きも回転だ。みる子が飼っていた亀の水槽をかき回すのも、回転である。みる子の夢や、ナイスの夢の中で現れた自分の肉を食すという行為も、「犬」の自分の糞を食べるという行為も、円環を構成しており、回転に数えることができるだろう。

 これら回転するもののモチーフは、舞台中央、犬たちと「娘」の住む2階建ての家に置かれた回転する地球儀によって、「球」に接続される。ジョセフィーヌによって踏みつけられる場面もあったが、この地球儀が物語に大きく作用することはない。そのことが逆説的に、この地球儀の象徴性を強めるだろう。地球儀はもちろん我々「ニンゲン」の暮らすこの地球を模したものであり、その形は「ニンゲンの世の中の『形』」そのものだ。

 「球」は、おぐりとジョセフィーヌの妊娠の表現(服の下にボールを入れている)や、ナイスによって執拗に繰り返されるリフティングで用いられるボールとして現れる。執拗に繰り返される――〈O〉は、ナイスのリフティングやリカのターンなどの執拗な反復、役者にとっても、観客にとっても苦しい反復に接続される。

 『いのちのちQⅡ』の冒頭、ジョセフィーヌが登場し、その血筋を語る場面は、役者の動きと台詞の反復によって構成されている。「ジョセフィーヌ14世は、チャンピオン犬で」「ジョセフィーヌ13世は、チャンピオン犬で」といったように同じ動作で、数字だけ変えて反復される一つ一つに差異はほとんどなく、1世まで続けられる。それは、観客に飽きられてしまうすれすれのところ(実際、飽きた者もいたかもしれないし、私も飽きかけた)を行く反復である。また、その後〈O〉と共に現れた反復であるナイスのリフティング、リカのターン、リカとジョセフィーヌの追いかけっこもまた、同じ動作の執拗な反復として捉えられる。それらは、反復して観客に印象付ける必要のあるものではないように見える。しかも反復は冗長に見え、先に述べたように、飽きてしまうほどだ。そのような意味で反復は観客にとって、苦しい。

 そしてこの反復は、観客にとってだけでなく、役者にとっても苦しい負荷である。ターンやリフティングや追いかけっこがこの劇を観ていない者にも想像しやすいだろうが、それらを執拗に繰り返すことは肉体的に厳しいはずだ。しかし、例えば劇団マームとジプシーの作品の中で、一般に論じられるように、動作の反復による身体への負荷によって役者の苦しむ様子が観客に感情的に働きかけるのに対して、『いのちのちQⅡ』における負荷の「苦しさ」を役者はほとんど表に出さず、それ故に感情的な効果が生じることもない。

 そしてまた、おぐりとジョセフィーヌの妊娠のように、戯曲上の物語においても苦しいものを、〈O〉は表現する。二匹の雌犬は、妊娠したことによって(ボールを腹の部分に入れたことによって)「もうすぐ死ぬ」のだ。これまで見てきたことから、〈O〉の一つの特質が見えてくるだろう。〈O〉は、苦しみなのである。二匹は、妊娠する前まではそれを恐れ、あるいは忌避していた。しかし妊娠してしまってからは、かなり淡白にその現実を受け入れているように見える。このことと、先の段落で述べた役者が苦しさを表に出さないところから、〈O〉のもう一つの特質、受忍を強いること、が見えてくるだろう。〈O〉は、受け入れざるを得ないものなのだ。

 ジョセフィーヌの妊娠を忌避する描写からも、〈O〉の特質が読み取れる。ジョセフィーヌはフィアンセであるナイスに飼い主に隠れてビーフジャーキーを与えることで、彼を太らせ、自身との生殖を遠ざける、すなわち、〈O〉を遠ざける。彼女は「革命児」としての自己を自覚し、彼女が深い思い入れを持つアシカ科の哺乳類オタリアと性交するために家を出るが、しかし叶わず、家に戻ってナイスの子を身ごもることになる。その帰宅の直前に、リカとの追いかけっこが置かれている。リカに追いかけられ、〈O〉の動きを強制される中で、ジョセフィーヌは「ビーフジャーキーが食べたい」と叫び、家に逃げ戻っていくのである。妊娠後、太ったナイスについて、オタリアと似ているし構わない、と語るジョセフィーヌは、〈O〉を受け入れてしまっていると言えるだろう。ビーフジャーキーはナイスの好物であったが、彼は、自分が牛になって、自身の肉を食べる、という夢を見ている。ビーフジャーキーを食べるという行為は、幸せなように見えて(ナイスは幸せそうにビーフジャーキーを食べる)、自分の肉を食すという意味で自傷めいた、苦しいものだ。ジョセフィーヌはそれを自分では食べずにナイスに与えて生殖を先延ばしにしていたのだが、それを食すことは、〈O〉に回収されることを意味する。〈O〉は、そこから逸脱するものを回収する力を持つのである。もともと板前になるという夢を持っていたみる子が、女であるために夢を諦めざるを得ず回転寿司屋を営むようになった、というのも〈O〉への回収であったのだろう。彼女は、家出の中で店を訪れオタリアと交尾するのだと語るジョセフィーヌに「若いね」と呟く。

 本作に現れた〈O〉とその意味付けは以上のとおりだ。〈O〉は苦しく、逃げ出すものを回収する力を持ち、さらにビーフジャーキーのように、美味しくもありながら自分の身を蝕むものであり、また受け入れなければならないものである。

 そして〈O〉は、地球儀によって「ニンゲンの世の中の「形」」に接続されている。〈O〉は、世間、常識、日常、「日本」、そういった言葉で呼ばれる「ニンゲンの世の中の『形』」の暗喩なのだ。「ニンゲンの世の中の『形』」は、円環的な反復を基礎にして成り立っている。例えば24時間で0に戻る時計、暦と、それに基づく学校や職場での反復。子を産み、子がまた子を産むといった再生産(本作の中で皮肉られた万世一系の「象徴」は再生産の象徴である)。それらはニンゲンの社会を維持するものに他ならない。そして〈O〉は、逸脱も逆回転も許さない。それを苦しいと感じつつ受忍している者も、ナイスのようにそうは感じないまま身を蝕まれている者もいるだろうが。

 そのような「形」への抵抗として、そこから「無理し」つつ「はみ出し」ている存在、〈Q〉としてのジョセフィーヌが、「犬」と「娘」が、本作に描かれていた。

 「犬」が、自身の首と庭の木(回転の中心点としても用いられる木である)を繋ぐゴム紐を引っ張り、ゴムの反発でまた木に引き寄せられる、という動きを繰り返す場面がある。その反復は例外的に苦しげな様子で行われるのだが、その逃れようという動き、そして雑種という出自は、〈Q〉に他ならない。彼は脱走に成功するが、死に、ジョセフィーヌたちの物語の時点ではもういないことになっていて、物語にも主に飼い主の「娘」の回想として登場している。

 「犬」は死ぬことになった。しかし、彼を「娘」が思い出すことは、〈O〉から外れることである。先に述べたように、〈O〉は逆回転を許さない。〈O〉の時間はベンヤミンの論文「歴史の概念について」から言葉を借りれば「均質で空虚な時間」であり、回想は、同論文の中で彼が述べているように、過去を現在に蘇らせ、そのような時間の観念に疑問を投げかける行為である。

 またジョセフィーヌは自身の「革命」の失敗、自身の死を悟りながら最後に、遠い未来、ジョセフィーヌの遠い子孫が、「オタリアとのこどもを産むことになったのですって」と語る。この最後の台詞は、〈O〉が閉じた円・反復でなく、螺旋の構造をしていることを示唆する。逆回転や逸脱を許さない〈O〉に逆らって未来のことを見てきたように語るその言葉は、ジョセフィーヌの夢想に過ぎないかもしれない。しかし、雑種の「犬」やジョセフィーヌのように、〈Q〉として生きることは許されず、〈O〉を変革するに至らず回収されてしまうことを考えると、円のように見えながらずらされている螺旋は、「ニンゲンの世の中の『形』」に抵抗するために、苦しむ者たちが取り得る唯一の形だろう。雑種の「犬」が脱走後回転寿司屋のベルトコンベアを破壊したように、〈Q〉としての動きが、〈O〉にわずかでも衝撃を与え、それを螺旋形にずらしていく、反復の中の差異を大きくしていく。本作はその小さな動きの大いなる可能性を、種の進化のごときスケールの可能性を示している。

 『いのちのちQⅡ』は、犬たちやみる子、リカとスケなど、多くの登場人物たちの様々な物語を含んでいたが、それらは〈O〉や〈Q〉といった「形」によって統合されていた。紹介文にあるように、劇団Qは、「形」とそこから「はみ出す」ものを問題にしていたのだ。そして、その「ニンゲンの世の中の『形』」に対する問いの鋭さは、容易に「question」の意味を想起させるその劇団名にふさわしいものであった。

 

引用・参考文献

ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」浅井健二郎訳『ベンヤミン・コレクション Ⅰ』ちくま文庫, 1995.

 

神川 達彦(かみかわ たつひこ)

1992年生、早稲田大学文学部三年で日本現代文学を専攻。